だれもが「ぼっち仕事」で生きていくしかないと覚悟を決めた方がいい
私は、1995年に日本IBMを卒業して以降、一人仕事、すなわち「ぼっち仕事」を26年間続けている。それを当たり前として受け入れてきたが、世間では、まだまだ特別であるようだ。ただ、雇用形態がジョブ型へ変われば、例え会社に所属していても、「ぼっち仕事」的な生き方が求められるだろう。
会社との約束に対する成果で評価されるようになる。何時間働いたからではなく、事業の成果にどれだけ貢献できたが、問われる。外資系の企業であれば、あたり前で、「ジョブ型」などという区分など、そもそも存在しない。
出世して課長、部長、役員になることではなく、自分のジョブ・ディスクリプション(職務記述書)をアップグレードしてゆくことで、報酬が上がる仕組みになる。自分が会社に何ができるかで報酬が決まる。会社に所属しても、「ぼっち仕事」が基本になる。働くことと会社との関係が大きく変わってしまうだろう。
待っていれば、会社が仕事を与えてくれる。それを愚直にこなせば出世できて、収入も増えるという時代では、なくなろうとしている。
私は、バブル崩壊やIBMの凋落をサラリーマン時代に経験した。その頃は、営業予算を達成することが、相当に厳しかった。しかし、できなくても、コミッションが減るだけのことで、食べていけなくなるとか、仕事がなくなるというわけではない。言わば、サラリーマンというセーフティ・ネットの中で、評論家として、「世の中は、大変なことになった」と感じ、そんなことを偉そうに語っていたに過ぎない。そして、数字が達成できないのは、景気が悪いからだと、自分を正当化することができた。
日本IBMがリストラを始めたとき、私は対象外だった。ただ、会社は、入社後一定年数以上の社員に、一律退職金の上積みを適用した。その結果、辞めさせたくない稼ぎ頭の人たちが、このタイミングで数多く辞めていった。私もまたそんな一人だった。
IBMという看板が外れてしまうと、もはや評論家ではなく当事者である。「大変なことになった」を、身をもって体験するわけで、どれほど胃の痛い思いをしたか、いや、そんなことを感じるヒマもまないほどに、生き抜くことに必死だった。死ぬに死ねない。そんなことを考えている余裕もない。景気が悪いから、売上が上がらないなんて、言い訳しても、自分の収入が増えるわけではない。
コロナ禍を機に、いま多くの企業が、メンバーシップ型からジョブ型へと雇用制度を変えようとしている。そうなると、セーフティネットの内側から世の中を見ているわけにはいかなくなる。これまでと同じようには、生活や将来を描けなくなるだろう。
「ウチの会社は、大企業のオンプレ型基幹業務に圧倒的な強みがあります。しかし、講義を受けて、その強みが、これからは失われてゆくと感じました。この強みを活かし、クラウドの時代で事業を伸ばしていくにはどうすればいいのでしょうか?」
大手SI事業者の社内研修の折に、このような質問を頂いた。まさに、これこそが、知らず知らずのうちに身につけてしまったセーフティネットの内側からの発想だ。もはや、「オンプレ型基幹業務」は「強み」ではなく、「弱み」なのだ。強みを活かすのではなく、弱みをいかに克服するかである。世の中の現実が見えていない。
大きな会社であればあるほど、「強み」に守られていると考えがちだ。だからこそ、このような質問を頂くわけで、そう思っているのは、この質問者ばかりではないだろう。このような視点の持ち主が、沢山いることが、この会社の本質的な「弱み」といえる。
社会の競争原理は大きく変わってしまった。かつての「強み」は、「弱み」に変わってしまった。そんな現実を直視すべきだ。
社会学者のエズラ・ヴォーゲルが、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を上梓したのは、1979年だ。日本はバブルの絶頂期にあり、多くの日本企業が世界の頂点でしのぎを削っていた。「失われた30年」と言われながらも、こうやって、いまの日本が世界でそれなりに評価されているのは、そんな時代の遺産に過ぎない。そして、そこで働く人たちのマインド・セットも、そんな時代を引きずっているとすれば、なんとも残念なことだ。もはや、世の中は、かつて日本が輝いた時代とは異なる競争原理で動いている。その流れに乗り移ることを考えなくてはいけない。
私たちは、コロナ禍に直面し、半ば強制的に外出の自粛やリモートワークを求められた。しかし、様々な申請のために混雑する役所の窓口に並ばなければならず、ハンコを押すために出社しなければならないといった事態になってしまった。子どもたちのリモート授業は、15%ほどしか実施されず、アメリカや中国の90%とは比べるべくもない。東南アジア諸国と比べても、圧倒的に、その割合は低い。
理屈ではなく実感として、デジタル化の遅れを再認識した人も多いのではないか。あきらかに、世界の潮流から取り残されている。「失われた30年」は、デジタル化の遅れだけではないが、かつての「強み」が足かせになって、時代の潮流からずれてしまった人たちの所産であることは、疑うべくもない。
先入観を持たずに、いまの自分たちが取り巻く社会やビジネスの環境に真摯に向き合うべきだろう。そして、会社に評価されるのではなく、社会に評価されることを考えるべきだ。これからのジョブ型雇用の時代に、生きてゆくには、そんな志を持つ必要がある。
会社に必要とされるのではなく、社会に必要とされる存在になることだ。どこに行っても通用する自分になれば、いまの会社もあなたのことを必要とするだろう。当然、人生の選択肢は広がる。
ジョブ型で雇用が守られるかと不安をいだく人は多い。それもまた、いままでのセーフティネットの内側からの見方に過ぎない。もう、そうでもしなければ、事業の継続も、企業の存続もあり得ない。そんな、追い込まれた状況であるという客観的な事実を受け入れるべきだ。
簡単なことではないし、痛みも伴う。しかし、私たちがそんな時代に生きているという事実は否定しようがない。もはや、だれもが「ぼっち仕事」で生きていくしかないと覚悟を決めた方がいいように思う。
コロナ禍は、まさにそんな現実をあからさまにし、一気に時代の流れを加速するに違いない。