リモートワークになって、生産性が上がった人、下がった人、変わらなかった人
リモートワークになって、生産性が上がった人、下がった人、変わらなかった人がいる。
生産性が上がった人は、もともと、自分の仕事について目的意識を持ち、そこで成果をあげることに、専念してきた人たちだ。通勤や余計な会議、煩わしい人との関わりがなくなり、生産性が大きく上がった。勉強時間も増え、さらに能力を磨いている。
生産性が下がった人は、もともと、人に頼って仕事をしていた人たちだ。自分でやるのではなく、「これやっておいて!」や「これどうなってるの?」と人に頼る。存在感を示すために意見はするが、自分で考えない言葉尻を捉えての質問や指摘だから、本質からずれていたり、"なるほど"と直ぐに納得しそれ以上のツッコミがない。声を掛け、雑談し、いっぱい酌み交わしながら、働きぶりや仕事の状況を理解し、人の作った書類のチェックや手順を確認することにも熱心な人たちだ。人に頼ることができなくなり、生産性を大きく下げてしまった。はやく元の状態に戻って欲しいと願っている。
生産性が変わらなかった人は、もともと、仕事をしていなかった人たちだ。当然、何も変わらない。どちらでもいいが、いまの方が気楽でいいと考えている。
ある方からこんな話しを聞いた。裏付けがあるわけではなく、本当かどうかは分からないが、なるほどと納得してしまうのは、私だけではないだろう。
先日、日米の比較で、在宅の方が、生産性が低いと答える日本人が圧倒的に多いという記事(PDF)を見た。その理由として、「対面でのすばやい情報交換ができない」が、上位を占めているところを見ると、あながちこの話も間違いではないのかも知れない。
以心伝心を大切にする日本ならではのハイコンテクスト文化が、通用する時代ならば、これもまたわからないでもない。しかし、ビジネス環境がめまぐるしく変わり、不確実性が高まる時代に、極めて狭い時空間に人間関係を押し込め、それを土台に組織運営を行える時代ではないだろう。あきらかに時代錯誤である。
日本の一人当たり労働生産性は、OECD加盟37カ国中26位であり、1970年以降最も低くなっているとのことだ。自分の仕事についての自覚、それを成し遂げるための自己研鑽を怠ってきたと言うことなのだろうか。
会社が決めてくれる仕事に必死になってなんとかしようとするのではなく、自分の適正や存在意義を自ら問い、自己実現のために自分で仕事を選び、その能力を磨くこと、すなわち会社に依存しない自律した自分を極めるような働き方が、できるようになれば、労働生産性も上がっていくのではないかと思っている。
ならば、雇用制度をジョブ型にすればいいと単純にはならないだろうが、それでも大いに考えてみるべきだろうし、優秀な人材を育て、採用していくには、考えておかなければならないことだ。
コロナ禍のいま、いろいろなことが異常である。しかし、この異常な状況もやがては収束し、コロナ禍を理由にリモートワークを強いられることもなくなるだろう。だからといって、生産性が上がった人たちの恩恵を取り上げてしまうようなことをすれば、彼らの流出を促すことになるのは、かくごしておいたほうがいい。
リモートワークが特別なことではなくなったいま、働くことと日常の境目は曖昧になった。だからこそ、自分の仕事への明確な自覚を促し、それを支える働き方が求められている。それは何も、全てをリモートワークにすればいいという単純な話しではない。できない人もいれば、できる人もいる。そういうひとに自由な選択を与え、それぞれに自分の能力を最大限に発揮してもらえるようにすることが、大切なのだろう。
いま、とりくんでいる八ヶ岳南麓のシェア・オフィスも、そんな選択肢の1つとして、「それができる人たち」の場にしたいと思っている。森や空気が都会とは違う自然のパワーは圧倒的だ。もちろん、それを好まない人たちもいるわけで、それを強要することもない。ただ、選べる自由とそのための受け皿となることで、世の中に変化を促す役割を果たしたいと思っている。