10年目の被災地が教えてくれたこと
人生の大きな節目となった東日本大震災から10年。ボランティア活動に関わり、幾度となく被災地をおとずれた。そんな被災地のいまを訪ねるために、この週末はクルマを駆った。
10年前、始めて訪れた被災地は、南三陸町志津川だった。
当時、途中まで開通していた自動車専用道路の三陸道は災害支援道路として、仙台から石巻や南三陸に物資や人を運んでいた。この道路がなかったら、相当に大変なことになっていただろう。
そんな三陸道を当時の終点である登米の辺りで降りて、沿岸部の南三陸町へと山を越えて向かった。しばらくは、壊れた建物はなく、見た目には被害はない山道を下る。それが、南三陸町に入るとまもなく、突然に瓦礫が現れる。ほんの数メートルの違いが、天国と地獄を分けてしまった。津波の破壊力の凄まじさをまざまざと見せつけられたことを覚えている。
その先は、至る所に瓦礫が積まれ、ねじ曲げられた自動車が転がっていた。道路に並行して走る鉄道の線路はねじ曲がり、トンネルを瓦礫が塞いでいた。
沿岸までやってくると、破壊された堤防の手前には手つかずの瓦礫が地面を被い、それが海水を被って湿地になっていた。その光景と生臭い匂い、飛び交う蠅の多さに、被災地の現実が圧倒的な迫力で迫ってきたことをいまも忘れることができない。
そんなこの場所も、いまはすっかりと変わってしまった。嵩上げされた土地を縫うように新しい道路が整備され、新築の建物も点在する。巨大な防潮堤もできあがり、自然と人工を分断している。
正直なところ、なんとも不自然な景色だ。しかし、それがこの場所を復興するための選択だったわけで、これから何十年も掛けて、この地に溶け込んでいくのだろう。
沢山の懐かしい地元の人たちと再会した。津波にハウスを全て破壊されてしまった菊の農家の青年は、コロナ禍にめげず、しっかりと収益を上げていた。ボランティアがきっかけで移り住んだ方は、林業家としてこの土地に住み着き、伝統あるこの町の林業の再興をすすめている。また、当時点在した自主避難所の情報を集め、連絡係を務めてくれた若き住職は、2つのお寺を抱えて、奔走していた。
当時、小学校6年生で、自分の被災体験をノートに綴り、それを語ってくれた少女は、もう大学4年生だった。体育教師になるか、消防士になるか、人を助ける仕事がしたいと迷っていると言うことだった。
そんな彼らと当時のことを語り、これからのことを話した。
大雨警報が発令されている深夜の三陸道を、仙台へと向かった。その道すがら、彼らに負けてはいられないなぁと元気をもらった自分に気がついた。改めて、この震災で知り合った多くの人たちとの関係が、私の身体の一部となっていると感じた。十年一昔であるが、決して古びた感傷ではなく、この10年続く、元気の源のひとつであることは、間違えない。