垂れ流しの価値
コンテンツのありかたと配信形態について、栗原さんのエントリー「通信と放送の融合」とミニコン・ベンダーの死と堀内さんのエントリーpodcastを聴くに至っていない理由を読んで、つらつらと考えをめぐらせていたわけですが、こういう議論と別のところに放送の存在価値があることに改めて気づきました。
(ここから話が上記エントリーから遠いところに逸れます。。。(^_^;))
そう、「垂れ流しの価値」。
楽曲はともかくとして、トークや映像コンテンツをダウンロードして視聴する場合、どちらかというと多くは、ちゃんと見聞きするスタンスとして受け止められるのではないでしょうか。そう、ちゃんと相対しないといけないと思うと、かえって面倒くさい。
(もちろん、映画が見たいとかトレーニングを受けたいというときはちゃんとして当然ですけれど。)
普通にTVやラジオでも、これと決めた番組のときだけスイッチをONにする人もいるわけですが、僕なんかTVっ子なので、けっこうつけっぱなしだったりします。定食屋の野球中継、タクシーの中のラジオ番組などなど、なんとなく垂れ流しコンテンツというのもままあると思います。
コンテンツはコンテンツでも、漫然と垂れ流されるそれは、ちゃんと見たり聞いたりしようとするものとは異なる価値基準によって捉えられているのではないでしょうか。
同じような話として、インタラクティブに設計されているウェブコンテンツも、適当に垂れ流しておくわけにはいかないものです。そもそもPCの形態が個人での利用を想定していることから、基本的には「俺の目を見ろ」的なもので、なんとなくっていうことがないわけです。(TVよりもPCのほうが、少々緊張感漂いますね)
なんとなく、適当に、にぎやかしで、垂れ流しというコンテンツのありかた、それを意識した配信形態というのも、ちょっと考えて見てもいいかもしれません。