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橋本正徳の非営利な活動を報告します

『善良』とは何か?

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特に「善良である」と、強く思っている訳ではないが、「そこそこ良いことやってんじゃないかね?だって、助かる人いっぱいいるだろうし〜」くらいの気持ちで非営利的な活動、社会貢献的なことをやっている。「が、しかし」だ。過去には、「NPOは、なんだかワルいことをやっている」という気持ちや、「募金なんて、実際、正しく使われているかなんて分からないよ」などと、斜めに見ていたことは、事実としてある。「ボランティア」にしても然り。「怪しいもんだ」と思っていた過去はある。自分がそのような活動(ボランティアだったり)をしていても、「斜めに見られているかもしれない」という変な心配があったり、ごく少数回だが「うまいことやっている(金儲けに繋げている)」風なことを陰で言われているらしいことも、小耳に挟む。「好感の得やすさ」を持っている活動は、裏返して、ワルく思われがちな点もあるかと思う。

また、別の視点で、『善良である』というのは、ある種の価値観だと思うので、価値観の違う人からは「どうでも良い」と思われたりするかもしれないし、下手すると「ワルい」と思われることもあると思う。「Aに良善であることは、Bには悪である」というケースも多々あるだろう。そうでなくとも、「結果、良くないことが起きた」ということもあるだろう。また、どんなに良いことでも、ワルいようにとることは、可能だ。「社会的企業について」で触れたバングラディッシュのグラミン銀行においても、「女性に重点を置いて、5人のグループを作ることを条件として、低金利融資をする」為に、「人身売買につながる」という意見も出ているようだ。もし、そういう「逆に良くないことに繋がるケース」が多発したり、「実はワルいのだ」という風説が蔓延すると、いきなり「善良」ではなくなり、「ワルいこと」になってしまう。

「善良だろうという仮説」という具合に「善良」を扱い、「自分」や「事」「モノ」がまるで救世主かのように表現するようなことは、あまりやらない方が良いのだろうと感じる。演説などによって大衆の感情や情緒に訴えるような、「アジる」ことも、極力やらない方が良いかと考えている。もし、そのようなときは、(やり方、表現が間違っていて)嫌われるかもしれないが、「でも、○○な人には迷惑かける」とか、「もしかすると、僕、これで、望んではいないけど、多くの収入を得るかもしれないよ」などと、あり得るネガティブな要素も付け加えてお話しする。「100%善良である」という間違った信用を得ない為だ。「善良である」という確信めいたものや、自信が足りないからかもしれない。結果、一部で「橋本はツンデレだ」と言われちゃうのは、そういうところにも原因があるのかも。

「善良」とは何か?なかなか、掴めそうで掴めない、難しいことだと思える。僕は、実はワルいことをやっているかもしれない。


参照:
『ボランタリー経済』と『インターネット』
「非営利」と「営利」の補完作用
「非営利」を考える
社会的企業について


写真:dotbenjamin

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