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橋本正徳の非営利な活動を報告します

人はそもそも真剣に考えているはず

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まだまだ、大人になりきれていない部分もあるので、時折、「あ〜、今ちょっと、怒ってる感じだったかなぁ(照)」となることもあるが、あまり怒らないように心がけている。プログラム屋さん以外にも、「職人業」というものに、どっぷりと入って、どっぷりと怒られてきたので、「怒る」ということの価値というのはよくわかるが、残念ながら、僕が怒ってもあまり効果がないので、「怒る」ということは極力していない。「怒り方を忘れた」というのが、本当の理由かもしれないが。

巷に溢れる「人を育てるための戦略」という戦術は、非常に複雑で姑息に「人の心」を扱っているように見え、「人としてなんだか気持ち悪い」と感じる。「人は褒めて育てる」「できない社員の叱り方」「社員のモチベーションをあげる方法」だとかなんだかあるが、「もともと人は善良である」という思考でみてみると、そういうライフハック的なものは、「そもそも人は駄目な奴である」という思想の上に成り立っているように見える。笑いのネタ的に『複雑で姑息に「人の心」を扱っている』ようなことを言ったりするが、そんなもの、ライフハックネタにしかすぎず、やっぱり、下衆な笑いのネタにしか過ぎないと感じ、反省する。「人の心」に対して、さもインテリみたいな複雑なアプローチでなんとかしようとすると、迷路にはまり込み、何の結果も出せないままになる。まずは、信じる、徹底的に信じる。駄目だったら、次に、諦める。最後に、退けるような、シンプルな仕組みが最適だと思う。

「自然と、然るべきところに、然るべき人がいる状態になる」。

組織を、私情、感情などを入れずに観察すると、「立場」や「役割」というものは、ある程度、必然的に決まっていくんだなと思えることがよくある。頼もしい人は、勝手に「相談を持ちかけられる人」になるだろうし、目障りな人は、勝手に「みんなに嫌われる人」になるだろう。幼稚園に通っていた頃から変わらない仕組みがずっと続いている。そのように、会社や、コミュニティの仕組みの中でも、勝手に「然るべきところに、然るべき人がいる状態」になる気がしている。「みんなに思われていること」、「みんなに期待されていること」と違うのに、自分の立場をなんとか築こうと無理をすると、やはり無理が生じるだろうし、上司や経営者など、その場を仕切っている人の采配ミスで、「みんなに思われていない人」、「みんなに期待されていない人」を、重要な場所に置くと、やっぱり無理が生じる。それが組織のヒエラルキの上の方であれば、あるほど、組織が駄目になる。「不自然に、然るべきところに、違う人がいる状態になる」と、そこから、変な歪みが出てくる。

好きな言葉にサン・デグジュペリさんの「 愛する・・・それはお互いに見つめ合うことではなく一緒に同じ方向を見つめることである(Love does not consist in gazing at each other, but in looking outward together in the same direction.)」という言葉がある。とにかく、そういう意味で「愛する」ということを大切にしなくてはいけなくて、「信じる」ということが、そのための唯一の施策である。「愛する」ためにも、一緒に見つめる方向を決めておくべきで、それがないと、「不自然に、然るべきところに、違う人がいる状態になっている」ことに気付かない状態になる。見つめるべき方向に理解のある人は、自然にそういう行動をとるだろうし、理解のない人、「愛さない人」は、自然に淘汰され、隅にいく。最終的には、自然に隅からポトリと堕ちる。ある程度の人が集まってきたら、一緒に見つめる方向を決めること、然るべきところに然るべき人がいるようになる仕組みを作ることが大事だと思う。

人は、そもそも真剣に考えているはずだし、自分が愚かなのかもしれない。なにかおかしなことがあったら、「理由があるはず」と考え、特に「怒るとき」「注意を促すとき」は、無理をせず、自然な態度で「謙虚な気持ち」を持ち、人に接した方がいいのだろうと思う今日この頃だ。

写真:spakattacks

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