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橋本正徳の非営利な活動を報告します

カリスマの無駄遣い

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カリスマ(charisma)とは、本来はギリシア語『新約聖書』のなかで使徒パウロが用いた言葉で、全てのキリスト者の働きに与えられる「神の恵み(カリス)」あるいは「神の賜物」を意味した。この言葉を学術用語として最初に用いたのは、ドイツの教会法学者ルドルフ・ゾームである。ゾームは、『教会法』(Kirchenrecht)第1巻(1892年)のなかで、1世紀の原始キリスト教のエクレシア(集会)を説明・分析するために、このパウロの概念を利用したのである。ドイツの社会科学者マックス・ヴェーバーは、ゾームのこの用法に示唆を受けながら、社会全般に普遍的に妥当する社会学的概念としてのカリスマ(Charisma)を形成した。すなわち、非日常的・超人格的・超自然的な資質を有する者としてのカリスマがこれである。ヴェーバーは何ゆえに支配は正当化されうるのかという観点から、合法的、伝統的、カリスマ的支配という正当的支配の三類型を構想し、カリスマの同時代的意義を強調した。

カリスマ - Wikipedia』より

「カリスマ」とは、上記引用中の「非日常的・超人格的・超自然的な資質を有する者」だと、解釈している。人から言われるので、僕にも鼻糞ほどの微量の「カリスマ」があるということにさせていただきたいのだが(笑)、「非日常的・超人格的・超自然的な資質」ってやつは、持っているだけで、恵まれている人のように感じる。僕は、もし「カリスマ性をあげる薬」が売られていたら、買おうか、どうしようか、迷うかもしれない。それくらい「非日常的・超人格的・超自然的な資質」は、誰もが持てるものでもなく、ほとんどの人が持てない、特別なものなのだ。しかし、その「非日常的・超人格的・超自然的な資質」も、ときには諸刃の剣になる。

「非日常的・超人格的・超自然的な資質」を持つ人は、多くの人から、期待をされる。インターネットやマスコミの発達した「今」だと、変なバイアスがかかり、単なる個人が拡大されて見えてしまうので、自分が知らない人からも「期待」されることがあったり、尾ひれがついてしまって、個人の持つ「非日常的・超人格的・超自然的な資質」を超えるくらいの「期待」をされることがある。昔に流行った「カリスマ美容師」なんか、いい例かもしれない。

「非日常的・超人格的・超自然的な資質」を持つ人は、既出のように「変なバイアスがかかり、単なる個人が拡大され」てしまうので、一言一言の重みが、本人の思っている以上についてしまい、変なことを言ってしまわないように「空気を読む」ことが重要視される。しかし、もう一方では「良い期待の裏切り」を欲される面もあるので、逆に「空気を読まないこと」を期待されたりする。そのように単なる個人の「カリスマ」をある種の「無責任な個人の集団」が取り囲んでいるように見えることも、チラホラある。悩んだ末なのかは解らないが、結果的にカリスマが「期待に応えきれない」「期待とは違う方向へ行く」というような、方向へ動いてしまうこともある。そして、「期待に応えなかった」「期待とは違うじゃないか」と誹謗中傷されてしまう。インターネットやマスコミを使って、誇張され、過大評価された「カリスマ」を作ることができる「今」であれば、その確率は高いかもしれない。「カリスマ美容師」と注目されたばかりに、「美容師免許を持っていない」と騒がれたりしたのも、見方によってはそういうことだと、勝手に決め込んでいる。「非日常的・超人格的・超自然的な資質」を持っているがために、批評にさらされて、結果的にマイナスに働くことがあるし、自分のやりたいことと違うことを期待されることもある。まさに、カリスマが自分の「非日常的・超人格的・超自然的な資質」に殺される感じだ。見方を変えると「チャンスをものにできない」と言いかえることもできるかもしれない。

なかなか持つことのできない「非日常的・超人格的・超自然的な資質」を持つことのできた稀有な存在、「カリスマ」も、セルフプロモーションの手段次第、日々の立ち振る舞い次第では、「カリスマの無駄遣い」をしてしまう。逆に、「非日常的・超人格的・超自然的な資質」の量は少なくても、自分で自分の資質を理解し、その効果を最大限に発揮すると、世のカリスマよりも、大きな影響を持つことができるかもしれない。

さて、僕は「カリスマ性をあげる薬」をマツモトキヨシに探しに行くところから始めたいと思う(笑)。


写真:june29

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