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末席はお好き?

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エルガーの交響曲第1番は、「威風堂々」にも通じるような、息の長い、いかにもエルガーという雄大な旋律で始まる。この主題は、1楽章のみならず、何度も陰に陽に登場する。この主題に限らず、この作品では、全曲を通じて共通の主題が何度もかたちを変えて現れる。循環主題といえば、フランクが有名だが、古くは、ベートーヴェンでも同様の手法を見ることができる。短い動機の循環はもちろんだが、第九のように、終楽章で分かりやすく各楽章が再現する例などだ。

エルガーの場合、この主題の登場は、クライマックスに至る壮大なオーケストレーションの箇所を除き、むしろ、物悲しくもある。これにはひとつしかけがあって、該当箇所の弦楽器パートには、Last desk only と記載されている。つまり、一番うしろのプルト、末席の二人のみがこの主題を演奏するのだ。

その間、他の弦楽器奏者は何をしているかというと、楽器を置いて休んでいたり、全然違う旋律を弾いていたりする。その効果は、どこからともなく懐かしい旋律が聞こえてくる、う~ん、物悲しい、といった具合だ。全曲の冒頭で、雄大に奏でた旋律が聞こえてくるのだから、懐かしいのは当然だが、視覚的にも、音空間的にも、周辺からわいてくるように感じられるので、たそがれ時に思えるのだろう。この効果はCDでは分からない。演奏している中にいると、そう感じることができるのだが、客席からではどうだろう。

さて、演奏する側からすると、この効果のためには、ちょっとちがったテクニックを要求される。オーケストラの弦楽器奏者は、管楽器よりも群れで行動する習性がある。パートメンバーは、パートリーダー(アマオケ業界用語では、「パトリ」ないしは「パトチ」)に合わせ、パートリーダーはコンマスに合わせる。もちろん、要所要所で自律的に演奏しなければならないのだが、一般的にこういう習性だ。

しかし、エルガーのこのケースでは、末席で、みんなに合わせて弾いていた人たちが、急に、自律的にオーケストラをリードしなければならなくなるのだ。しかも、ファーストヴァイオリン、セカンドヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと、扇状に広がった配置の末尾にいるのだから、お互いのパートのアイコンタクトも容易ではない(実際には、末席要員として、実力派が配置されていたりするのだが)。

このほかにも、3楽章の冒頭では、セカンドヴァイオリンのトップ二人(アマオケ業界用語では、「イチプル」)だけが、ファーストヴァイオリンと同じ旋律を弾く(この効果は、視覚的効果と本人たちが気持ちいい以外、何があるんだろう)。取り残された第2プルト以降は、伴奏にまわるのだが、ゆれる旋律に合わせて、ホルンとシンクロしなければならなかったりするので、途端に2プルオモテ(前から2番目列の一番手前の人)が、伴奏音型をリードしなくてはならなくなる。でも、第3プルト(セカンドヴァイオリンの場合、同じ2列目にいる)の人たちは、視野に入ってないような、と感じながら、いつもより大きめに合図を出すことになるのだ。

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