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議事録を書く力

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「東大合格生のノートは美しい」が出版された時は、経験上そんなことはないと思っていたので買う気になれなかった。でも、世の中でこれだけ売れている本だからと思って今頃眺めた。いやはやこのようなノートを私の周りに取る人がいたら大学時代の私の成績はもっとよかったに違いない(爆)

なぜこの本を買ったのかというと前々から議事録のことでちょっと思うことがあったからである。皆さんは自分が出席した会議の議事録を読んで、「あれ?これって私が出た会議だよね?」と違和感を感じた経験はないだろうか?

書いていることがそう間違っているわけではない。しかし、会議の印象が全然違うのだ。主な理由は二つあるのだろう。

<自分が重要だと思っている記述が抜けている>
授業のノートと同じで、すべてのことは記述できない。必然的に議事録を取る人は会議での発言を取捨選択をしている。その際自分にとって重要なことが書かれていないと、「へぇ~、なぜこのことが書かれていないのだろう?記述者は聞き洩らしたのかなぁ?それとも重要だと思わなかったのかなぁ?」となる。そして、記述者はこの会議の内容がわかっていたのだろうかと心配になってしまう。

<記述者の解釈が感じられすぎる>
記述すべきことを取捨選択している時点で既に、議事録に記述者の判断が入っているのは言うまでもない。しかし、それが客観性を伴っていないというか、記述者の意見が強く反映されすぎているのは困りものだ。「えっ、あの時発言したAさんはそんなつもりで言ったのじゃないと思うけど?」という違和感である。発言した言葉そのままに書いてくれればよいのにと思ってしまう。

もっとも客観性については微妙なところもある。重要な交渉ごとの議事録はとかく自社サイドで取りたがるものだ。というのも、交渉を少しでも有利に運ぶための議事録テクニックがあるからだ。そういう会合のカウンターパートから提出された議事録については、目を皿のようにして読んで、議事録の訂正をお願いしなければならない。

このように自分が出席している議事録ならまだよいのだが、自分が出席しない議事録を読んで判断しなければいけない時は、さらに大変だ。正しい情報をもらっても間違った判断を下すことがあるのに、間違った情報をもらって正しい判断が下せるはずもない

その昔私も上司に「議事録がちゃんととれるようになったら一人前だ」と言われたがまさしくその通りである。

こういう観点からは正直あまり役に立たなかった「東大合格生のノートは美しい」だが、この本を読んで感じることがあったので、それはまた別の機会に。

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