精神論を軽んじる人の末路
自分なりの矜持を持って最後まで生きることの難しさ
93歳で独居生活をしていた母親が体調を崩した話を前回書きました。
運良く病院側から入院が必要という判断をしてもらったことで、青森と東京という距離的な問題はまだそれほど大きくなっていません。
今回の経験で痛感したのは、人間の意思と、それを支える精神力の重要性です。
例えば他人との交流が大事とか、日々出かけることが大切なのは今さら言われなくともわかっていること。出来るだけボケないように日々の努力を続けることについても、こちらにあるように93歳になっても、毎日の体重に始まり、トイレの回数や体調、誰と電話で会話したかなどの記録を残す努力を続けていたことを先日帰省して知りました。
ここで何が言いたいことは、このような積み重ねの努力をしていても、1回体調を崩すことでそこからもう元の状態には戻れなくなり、そこで一番落胆するのは本人であり、その落胆が生きる意思を急激に減退させるということです。
そして、その減退は精神面や体力面に及ぼす悪影響は凄まじく、このような状態に陥ってしまうと自分がこれまで想定していたことや、メディアや書籍などで語られている言説、知識はほとんど役に立たないということを痛感しました。
このような状況に陥ってからの回復が可能なのかもわかりませんし、また出来ない場合にはどのようにこの先必要となる介護負担を、本人・家族にとって可能な範囲でコントロールすることも不可能な部分があります。
このような経験から、これから進む超高齢化社会で、自分なりの矜持を持って最後まで生きることの難しさと、それを実現するために必要なことは何なのだろうか...と考える機会が増えています。
アナログ世代とデジタル世代の強みと弱み
今回紹介した私の母親は大正15年生まれで、太平洋戦争時代に看護婦として従軍経験を持っています。
つまり、戦地において自分の判断が1度でも間違えば死に直結するといういわば極限状態での生活を体験しており、精神面において現代人と比較してかなりのタフさを持っているはずと想像しています。
このような経験を持っている人間であっても、今回のような経験で精神的な面でダメージを受けてしまう現実を目にして、精神力の重要性を改めて考える機会となりました。
さて、時代の変化から社会通念も変わりつつあります、昔ならOKだったことが現代においてはパワハラとして認定されることも増え、これらの行為が無くなることのメリットは大きいと認識しています。
昔に比べればパワハラが減る傾向にあったとしてもうつ病として診断される人の数は増大しているのはどのような原因があるのか私にはわかりません。
対処できない事態、状況に対して逃げるという対処法を否定はしません。
ですが、素人ながらに思うこととして、精神的な負荷への対処だったり、厳しい状況の打開をするためには、避けるだけでは自己効力の育成、強化には寄与しないのではないでしょうか。
何かしらの能力開発、筋力を増強するには、適切なインプットとプロセスが必要で、このプロセスにおいては精神面、体力面での負荷、ストレスと向き合う必要があることは多くの方に同意いただけると考えます。
ゲームの世界ではライフが残っていれば、死んでもやり直しが効きます。
また社会はデジタル化により、非破壊による可逆性を手に入れたことで決断力や胆力を養成したり、鍛える機会をかなり失っています。
フェイルファーストであったり、やり直しが効く社会そのものは必要ですが、人生の中で、やり直しが効かないことがあるという厳然たる事実があることも受け入れる必要があるのではないでしょうか。
スティーブジョブズの名言を高齢者の視点から再考してみる
スティーブジョブズの名言スピーチの人間の死に関する部分は、類まれなる数の引用数を誇るのではないかと思います。
私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。
自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安...これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。
中略
あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。
『今からやろうとしていたこと』『本当は何をしたいのか』という問に、多くの人は自分のことを上げると思いますし、私自身もそういう視点でこのスピーチを読んだり、見たりしていました。
うまくここに言語化、文章化できないのですが、人間はそれなりの年齢を迎え、自分の能力との衰えに直面しながら、受け入れたくない現実と日々向かい続けることになります。
そして、以前なら出来たことが出来なくなり、それを認識すればするほど、更にまた自分を落ち込ませるループにはまっていくようです。
冒頭紹介したように、毎日の記録はそこに対してのせめてもの抵抗であったように思います。ですが冷徹な現実は年齢的なことはもちろん、体力や能力が低下から日々死を意識させ、それがセルフネグレクト的なことに繋がっていくことを知りました。
このような状況下においての『今からやろうとしていたこと』『本当は何をしたいのか』は何なのだろう...と考えさせられています。
最後に
現代の日本では精神論を否定する言説が圧倒的ですし、現実問題として精神力を幾ら鍛えても結局は無駄なのかもしれませんが、リアルタイムに経験していることや、母親が残したノートの内容を読みながら精神面の重要性を再認識する自分がいます。
生きる意思が明確に存在する人には、これからの未来にテクノロジが様々な恩恵を与えてくれると考えます。また介護の問題に関してはお金が解決してくれることがそれなりにあることも知りました。
ただし、人生、生き死にに関連しなくとも、「意思(何かをしようとするときの元となる心持ち)」が減退したり衰える場面に遭遇しますから、様々なライフステージで対処すべき状況に、精神力もしくは、自己効力を開発・鍛錬しておくことは、やはり人生において大きな差異をもたらすのではないでしょうか。
前述したように、非破壊でやり直しが常に効く生き方をしてきたデジタル・ネイティブ世代であるからこそ、精神論をうまく取り入れる必要があるとは考えられないでしょうか。
いますぐこの話についての正誤や結論が出るわけではありません。
多分、30~40年が経過して平成生まれの人たちが高齢者となって死を意識し始める頃から、大多数が精神論を軽んじたことから生じる結果(精神論を軽視した弊害)に対し、それが社会問題として顕在化し対策の必要性が叫ばれる時代が訪れるかもしれません...