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時代と自分の生き方、噛み合ってます?

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自分達が20歳になるくらいのころも当時の大人たちには理解してもらえない事が沢山あり、世代間の考え方の違いはいつの時代でも避けようの無いものだろうなと思います。

自分の場合は親の薦めた方向とはまったく違う方向にすすみ何とか20歳から48歳になるところまで生活してこれましたけど自分が能力発揮できる仕事を機械がやってしまう時代が来るかもしれないとか、それ以外の理由でも仕事が出来なくなることで社会から疎外されてしまうプレッシャーは結構なものです(苦笑)

社会的地位が高いとか、身分保証がしっかりしていればそういう心配は少なくてすむのかもしれませんが、会社に勤めて正社員という立場であっても昭和時代のような安定性が大多数の労働者に提供されるのは困難というのは異論ないところではと思います。

こういう不安定な世の中で、当然安定性やキャリア形成のために大学院や資格取得など自分の価値を高める努力は非常に大切だと考えます。

社会の大規模組織化が進んだことで、キャリアを認められてしかるべきポジションを得られれば、資格や能力のレバレッジを利かせることは出来るでしょうし、現時点で一番賢い生きたかと言えると思います。

ただ、これの問題点は法科大学院の問題が示すようにどんどん高学歴な人、有資格者を輩出してもそれの受け皿がなければ「自分はしかるべき待遇をしてもらって当然」という人が溢れてしまうという問題。

あと、そもそも労働しなくないとか、自分は責任負いたくないし、あくまで決められた仕事をやるだけ…という考え方の人達も居る訳です。

ロボット化やIT化による仕事環境の変化は、多くの人から仕事を奪うことになっていますが、あまり仕事に対してアグレッシブな取組みをしたくないという層が仕事を失ったとして文基本的人権とか労働法など文化的な国家の国民として守られるべき事も当然あろうかと思いますが、このケアに税金を投入すればするほどきっと税金収める側のフラストレーションも増加するという悪循環を呼ぶでしょう。

学校で習う勉強の成績が良くなければ、基本的なキャリアのスタート地点にも立てないですし、社会的なステータスを得るにはそれなりの階段を上ることも必要でしょう。

キリスト教における労働の始まりの考え方などもあるかとは思いますが、1960年代から80年代、欧米では若くに引退するのがステータスのような話しを聞く機会が度々ありました。

現代では考え方が変ったのか、IT化が体力的負担を軽減し、知的生産活動を続けることを容易にしてくれたおかげで70代、80代で仕事を続ける人が日本だけでなく世界中で増えています。

ただこれ、下手すると若い人達の仕事や収入を奪うことにも繋がる側面もあり、諸手を挙げて喜べない側面もある話しですよね。

ここ数十年を振り返って見ても、無くなった仕事やテクノロジはいろいろ在るわけで、そこにここ最近のテクノロジの進化は凄まじい進化を考慮すると、それに伴う社会環境(仕事環境)の変化を受け入れる柔軟性や、その変化に追随していける能力開発の重要性が増していると自分は考えます。

自分は最近生まれて初めて入院と手術を経験し、自分として受け入れたくはないけれど仕事が出来ない状態に陥る、またそれが原因で会社の存続が脅かされるかもしれない…というこれまで考えないことはなかったけれど現実になってほしくない事が、目の前にかなり具体的に形で見えてくるという目に遭いました

ソーシャルネットワークを使い、個人の才能を使いなが世界的な仕事が出来る時代という見方もありますが、65歳とか70歳ちかくまで仕事を続けるのが普通になりつつある時代に個人単位で家族を含めた生活を成り立たせていくのはそれほど簡単ではないと、自分が20歳からずっと個人で仕事を続けてきた経験から考えています。

続けられることと金銭的な収入バランスを維持できるかは別な問題だったりもしますけど、自分の能力開発をどう続けていくべきかほんと悩ましい問題です。

こういう心持ちのときにこういう一文に出会うとこれはかなりのインパクトで胸に迫るものがありありました(苦笑)

全面的に運命に依存してしまう君主は、運命が変れば滅びるということ。また、時勢とともに、自分のやり方を一致させた人は成功し、逆に、時代と自分の行き方がかみ合わない者は不幸になるということ。

新訳 君主論 マキャベリ 著 池田 廉 訳

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