「採用基準」の著者、伊賀 泰代氏のリーダーシップの考え方に共感する自分
いろいろな場面でその人なりのキャリアパスだったり、将来への思いを聞く機会があるけれど、、本人が望んでいる将来像と実際の取組みのアンバランスさに戸惑いを覚えることも多かったのだけれど、この記事を読んで色々と自分の考えを深めるのに役立てさせてもらいました。
「採用基準」の著者である、伊賀 泰代氏のインタビュー記事がハーバード・ビジネス・レビュー5月号に掲載されていて、そこにはリーダーシップは通常組織の中で発揮するものと考えられるが氏が考えるリーダーシップをこう解説しています。
「目標を自分で設定し、それを実現するためにリスクをとって、自ら行く道を定め、良し悪しにかかわらずその結果を自身で受け止める覚悟を持つということ」
これを見て、自分は集団行動や組織行動が苦手でリーダーシップという事とはまったく縁が無い人間かとおもっていたが、この定義に照らすと自分もそこそこのリーダーシップを持っているかもしれないと思いエントリ化してみた。(ただ以前に書いたように、大きな絵を描いてそこに賛同者を集め、引っ張っていくリーダーシップとは縁が薄そうな自分ではあるのだが…)
この記事にある、一般的には10年以上働いても、使命といえるほどのものは見つかっていない人も多いという指摘にちょっと驚きを感じつつ、
音楽や芸術なりを志した人間は、まず自身がクリエイティブしたいことを実現させるための何年も修行を積んで、なんとか業界に入り込めるだけの技術を習得して、なおかつ自分自身のスタイルを打ち出す努力を続けながらも生活に足りる仕事が伴うかはベルの話しだったりします。
ですので、その立ち上がりの段階で大多数が挫折し、そこからアーティストとして自身の看板を掲げられるのは本当に少数の人間にしか許されません、運良くそれを職能として生活していける職業人口も大変狭き門です。
学校や会社の試験では、質問者が望む答えを提示できるのが高い評価に繋がりますが、表現を伴う職種においては技術の他、自分のスタイルを打ち立てる必要があり、そこが根本的に違う点だと自分は考えます。
表現者としてのスタイルを固めていくことと、職業人として使命が明確になることを同じレイヤーで話しをしてしまうのは乱暴な側面もあるかもしれませんが、我が家庭でも子供の将来の安定性を考えると、イマドキは大学だけでなく、大学院も出たほうが良いのかという話題になることがあります。
学歴コンプレックスからの脱却を目指し、48才で通信制大学に入学した自分が言うのも矛盾しているのですが、職業人生で達成したい使命が想い浮かばない状態で進学を無理矢理するのはどうなんだとも正直思います。
振り返ると、運が良かっただけと言える側面が大半なのですが、高校時代の後半をバンド活動に明け暮れ、20才から音に関わる職歴をスタート、26~27才のときに武道館や代々木や横浜アリーナのステージに立つ機会と、何よりレコーディングに参加してレコーディング・メンバーとして名前が残せたことは自分の最大のオリジナリティであり、アイデンティティとして譲れない部分の多くもこの経験があるからと言えるでしょう。
この経験から言えることは、まず自分が思う姿をイメージしないことにはスタートしませんが、思っただけで成れるなら誰も苦労しないですし、これを踏まえると、ただ漠然と職業生活を続けるだけでキャリアの成功に結びつく訳がないということだけは断言できます。
個人として40年、50年という長きに渡って職業人として生計が成り立つポジションを維持すること非常に困難を伴う事で、そこのリスクを考えたら組織に属すのがやはり安全策ではあるでしょう。
ただ、伊賀氏も指摘するように、個人によるキャリア形成を放棄して組織にその行く末を預けることが悪いとは言いませんが、組織がそれに報いてくれるという保証はないということは肝に銘じておくべきだと自分も考えます。
自分の会社をどうしたいのか、自分はどんな人生を送りたいと考えているのか…それを表に表わすためにかなりの時間を掛けていたのですが、おぼろげながら
自分の魂を売らず、世の中に自身の解釈を示し、そこから派生する活動において生活に足る収入を得、自立した生活が送れるようにする。
こういう形にもっていくための努力は続けられそうな気がしていて、こんな言葉が最近は目にとまったりしています。
世界はかゆやジャムからできてはいない。
それゆえ、怠け者を気取っていてはならぬ。
固い食物も噛まねばならず。
喉につまってへこたれるか、消化してしまうかどっちかだ