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進化論のダーウィンってかなり過激な思考の持ち主だったのでしょうか?

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昨日古い書籍ではありますが、アルビン・トフラーの「第三の波」について書いたところさっそくコメントもいただきました。

このコメントで指摘いただいた、近代化300年の歴史と学校教育の部分はいろいろと突っ込みどころがある話題だと自分も思っています。

この基本的な教育の話題にもいずれは触れたいのですが、今日は「自然淘汰」の話題に触れたいと思います。

アメリカで進化論を教えていない州があるという事に、驚いた事もありましたけど、ダーウィンという人の考え方を知ることで、「自然淘汰」という言葉が持つ怖さを感じています。

ダーウィンが注目したのは主に生物学的な進化ではあったようですが、その思想には明らかに社会的、政治的な含みもあったようでダーウィン自身がタスマニア原住民の大虐殺について、「文明人が世界中の野蛮人を駆逐しこれに代わるのは、ほぼ確実だろうと」と予言している話などを知るにつけ、時代の変化とともにすたれる職業や、役割などについてこれまであまり考えずに、それが自然淘汰、適者生存ってことだよね、、、みたいな事を思っていた時期もありましたが、これはあまり気安く使ってはいけない言葉だと最近は考えを改めました。

ダーウィニズムについてwikipediaを見てもさまざまな使い方があることが分かりますが、「第三の波」だけでなく、ジャレド・ダイヤモンドの「銃・病原菌・鉄」でも紹介されている、マシンガンは開発当初、西洋人同士の戦いでは用いられなかったというエピソードを知るにつけ、こういうケースにおいても弱者は容赦なく淘汰されていくのが必然の過程だとする、文化的な優越を疑わない厚かましさが通用していた時代があっことを知っておくのは大事な事のような気がしています。

この科学の時代に進化論を教えないなんて…と小馬鹿にするのは簡単ですが、「進化論」に関しての背景も知っているのと知らないのでは大違いなのを痛感したのでした。

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