ライフネット生命社長の「ビジネス書を読む時間があるなら歴史モノを読んだほうがいい」に触発されて
そもそもの発端は、2012年6月1日に参加した、デジタルコースト社(現:株式会社チームスピリット)の 勉強会 「経営・組織を考える」で、講演者であるライフネット生命出口社長の「ビジネス書を読む時間があるなら歴史モノを読んだほうがいい」という趣旨の発言に触発されたことに遡ります。
ここで人間の脳は13,000年もの間、進化していないという話もされていたとのことなのですが、ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」を読むことでその概要に触れることが出来、そこから古代ギリシャで書かれたものや、近代化後の社会変化について書かれた本にも触れることで刺激を受ける事が沢山あり、連休を利用してエントリ化してみました。
人類の歴史なかで、農耕が生まれ、集団生活から社会が形成され、文化・文明が発展または衰退していく時間経過のなかで自分の興味を引いたのは3つの時代でした。
- 生産性の高い農耕生活が実現した背景
- 古代ギリシャの知識人
- 産業革命以降の社会と労働の変化
まず1)は、地理的な要因、主要生産物の生産性、家畜の種類がその後の発展に与える影響について知ることができるのですが、これは新しい産業がスタートしてそこから事業を大きくする人、ある程度の規模で細々と続ける人、継続が困難になる人が居ることにも適用できる話であり、物事の基本は1億年前から変わっていないという事を知ることが出来ます。
2)については『アテナイの知識人の世界をつらぬく原理「ひま(スコラー)」と「説得(ペイトー)」である』(日本の知識人:小田 実:筑摩書房)という指摘があるのですが、その日暮らしの働いている人間は貧民か奴隷であって「人間」の名に値しないものという時代に、西洋思想や哲学の基礎が生まれていることを、明治維新と世界大戦での敗戦、そしてグローバル化フラット化した現代社会においても、一部の西洋人が決めたルールが幅を利かせる場面がIT関係では多いですから、彼らの根本的なところを推察するうえで、この時代の思想をかじっておくことは非常に有用だと考えます。
3)産業革命については1760年代から1830年代までがイギリスの発展時期と考えられているようなですが、この後日本は明治維新を迎え、西洋化の流れが急激に拡大するなか『学問のすゝめ』のような当時の大ベストセラーが出現した事象大変興味が沸くものです。
前述の「小田 実:日本の知識人:筑摩書房」では、明治維新が残したものとして、その当時のヨーロッパ、アメリカの大学との違いなどにも触れていて大変参考になるのですが、その時代をより具体的に知るために、「レンズが撮らえたF.ベアトの幕末:小沢 健志:山川出版社」などの当時日本の農村風景などを併せて見てみると、交通機関や通信手段の機械化がまだ未整備だった時代に東京まで出てきて学問をおさめることの大変さをいくらかでも想像することが出来ると思います。
産業革命から一定期間が経過してからとなりますが、当ブログでも数回紹介している「どん底の人びと」(ジャック・ロンドン:岩波文庫)の内容は現代にも通じるものがあり、改めて紹介させていただくと、1902年頃のロンドンの貧民街に潜入したルポルタージュで、工業化が進んだイギリスの過酷な労働環境を紹介しており、機械化で生産性が飛躍的に向上したのに人々の生活は楽にならないという指摘がこの時代からされているのを知ることができる書籍です。
同書での引用されているフレデリック・ハリソンの見解はかなり辛辣で、以下のようなものです。
産業社会の永久的な状態が私の目撃しているようなものであるとすれば、現代社会を奴隷制や農奴制からほとんど進歩していないときめつけざる得ない。すなわち、富を実際に精算している労働者の九〇パーセントが週末までは住むところがあっても、その先は果たして住めるかどうか分からないという状態にあるし、土地はひとかけらも所有せう、自分の部屋と呼べるものさえ持っていない。
中略
しかし、都市と田舎のこいう普通の労働者層の下にさらにひどい窮状にある無宿者の大群がひかえている。全プロレタリアートの少なくとも一〇パーセントを占めており、胸の悪くなるようなみじめな生活を強いられている。以上述べたことが現代社会の永久的な運命だというのであれば、文明の進歩は大多数の人類に呪いをもたらすものだと断じてよい。
第一次産業としての農耕の歴史の長さと、工業化が始まってからの300年近い時間経過は大家族から核家族化の変化だけでなく、地方から都市への人間の移動を促すなど人間の暮らし方の基本型を変えるだけの大きな影響力を及ぼしました。
1960年代以降は、ここに大量生産による効率化に多様化という要素が加わり、働き方としてはフレックス制やフリーランスなど労働形態にも多様化が生じ、第三の波でアルビン・トフラーが唱えた「生産=消費者」という形のほか、現在では「経営者=労働者」という側面も追加されているように思います。
産業革命時期や日本であれば、戦後の復興期からの資本家と労働者の対立構図は今でも残ってはいますが、ここ20~30年の間に出て来た、派遣、パート、業務委託契約などなど、仕事との関わり方も多様化した現在においては、独立自営、ベンチャー企業など、業界団体を持たない人たちの声を政治に届けて活かしていく道筋が整備されているとは到底言えない状況です。
「第三の波」で語られた脱工業化、ネットワーク環境を活用して仕事をする時代が本当に現実化している現在、イデオロギーとして右でも左でもなく、第一次産業と昔ながらの政治システムを守りたい人びと、産業中心主義を維持しようとしている人との意見対立はトフラーも書いているように不可避だと思います。
先日の選挙でも悩ましかったのは、仕事、職業に応じた業界団体が構成され、それを通じて政治的な圧力を行使していく方式が一般的な日本においては、脱工業化、グローバル化社会の中で生まれて来た新しい働き方をしている人たちのセーフティーネットワークを整備してくれる先は、どこなんだ?という悩みでした。
終身雇用はやめて、出来るだけ企業側も身軽に経営したい、つまりは最低限の正社員しか雇わないということは、より多くの人が派遣、パート、業務委託契約、更には独立する側にまわってくれないと大企業側も成り立たないということですから、雇用形態の多様化、小さな単位での独立・自営が増えることで、資本家・体制側と労働者という対立構図だけでなく、下手すると労働者と同等に不安定な事業者の保護という課題が浮上してくると思います。
安定した生活をしたいなら堅実な仕事にしがみつくのが一番かもしれませんが、分配可能な社会資本に限度はあり、そういう恵まれた環境で労働者になれるのが限られた人たちだけになっていくということは、独立自営、ベンチャーを立ち上げて自分で食べていこうとする人たちが伸びてもらえるような環境作りの重要性を日本の政治家には気がついて欲しいものです。
参考文献
- ジャレド・ダイアモンド:2000年:銃・病原菌・鉄 (上):草思社
- ジャレド・ダイアモンド:2000年:銃・病原菌・鉄 (下):草思社
- 福沢 諭吉:1942年:学問のすゝめ:岩波文庫
- 小田 実:1969年:日本の知識人:筑摩書房
- ジャック・ロンドン:1995年:どん底の人びと:岩波文庫
- 小沢 健志:2012年:レンズが撮らえたF.ベアトの幕末:山川出版社
- アルビン・トフラー:1980年:第三の波:日本放送出版協会