陰影礼賛とユダヤの安息日
陰影礼賛、谷崎潤一郎の随筆を知人に面白いよと勧められたので早速読んでみた。
昭和40年代には電球や蛍光灯があった時代なので、蝋燭の光で夜を過ごす体験は自分はしていないけれど、当時暮らしていた家には神棚と仏壇が並んでいる一画があり、その場所では蝋燭がともされていることが良くあったのだけれど、その様子は何ともいえない陰鬱な空気が漂っていて子供ながらに気味が悪い感じがしたのを覚えている。
蝋燭といわず、キャンドルとでも言えば俄然雰囲気が明るくなるのが妙なものだけれど、何を考えたのか、わたしの親は神社を預かっている神道の家なのに、わたしを含む3人の子供をカトリック系の学校に入れ、そこでは毎週礼拝堂で朝礼をし、12月にはキャンドルサービスをやるということを経験させるという無茶苦茶加減であったのだが、ここで出てくる蝋燭(キャンドル)のイメージは、最初のそれとは大違いなのは何故だろう(苦笑)
陰影礼賛は昭和初期の作品で、西洋人と東洋人の違いについて谷崎潤一郎の想いがいろいろな形で書かれているのだが、武林 無想庵が巴里から帰ってきたときの話として世界中で電燈を贅沢に使っているのは亜米利加と日本であろう。日本は何でも亜米利加の真似をしたがる国だと書かれているのが興味深い。
この一文のあとに、アインシュタイン博士を上方に案内する汽車の中で、アインシュタインが大層不経済なものがあると電子柱にともる電燈を差したというエピソードを紹介し、そこに「アインシュタインはユダヤ人だからそういう事が細かいんでしょうね」という「改造」の山本社長なる人の言葉が出てくるのだけれど、お金にシビアなユダヤ人というだけでなく、ユダヤ教の安息日では金曜日の日没前までに食事の支度をし、電気も使わずに過ごすという話を別の本で知ったところだった自分としては、一晩ネットやテレビ、ビデオも使わず蝋燭の光だけで読書しようとするとこんな案配。
比較的大きな蝋燭を3本用意したのだけれど、暗くて中々読書も進まず、これをある程度読み書きできるレベルまで光量を上げようとおもったら、この数倍は蝋燭が必要な感じがした(苦笑)
こんな感じで情報化社会から完全にオフラインになって、意図的に自由が効かない生活に身を置きながら、ネットなど言語道断w、外部情報から遮断され蝋燭の光で暮らすような生活環境に置かれていたら自分はどんな風に人間形成されたんだろう、、、と考えると、これまた人生の偶然性というか巡り合わせの妙を感じたりする訳で、
陰影礼賛という東陽的なアプローチでも、一週間における安息日という西方系の宗教的アプローチであってもそこは個々人の好みに任せるとして、情報世俗から完全に自分を遮断しつつ、こんな面倒な思いをしながら読書してみるのも、スマホでいつでもどこでもに慣れた自分をリセットするには良い方法な気がしています。