オルタナティブ・ブログ > 平凡でもフルーツでもなく、、、 >

感覚人間の思いつき、、、気になった記事、、、雑記等

重箱の隅をつついたほうが良い場面と、そうじゃない場面

»

ブログの記事を書き上げるまでの間に「こういう表現をしたら、突っ込み入るかな?」と思ってネタそのものを捨ててしまったり、表現を思案したりすることが良くあります。

家庭や仕事場で数人の人と話をする場合には、範囲が限定される分まったく背景が違う人たちが集まっている集団よりも意思疎通、合意形成しやすいと思うのですが、そうはいっても家族間でも思い違いや中々話しが通じないケースに出くわして苦労することがあります。

親、上司など自分よりも目上の人と会話する際、相手側が話しをしてきたたとえ話に、重箱の隅をつつこうと思えば違う例を示すことが可能なケースは多々あると思います。

さて、ここで例外の話を掘り下げるのは本来、親や上司が伝えたかったことの本筋とは違うことだったりするのですが、相手の言っていることに闇雲に同意を示すのは、仕事の場面においてはリスキーな行為ですから、社会生活の基本的なところを家庭で学んでもらおう、アドバイスしたいと思っても、その伝え方の悩ましさがどんどん膨らむばかりです。

「平等」「個人の自由」という考え方を尊重すべきだとは思いますが、自分も子供を学校に通わせて思ったのは、あまりに「平等」とかを一律適用しようとすると学芸会で全員主役とか運動会で順位つけないみたいな話しになったり、「個人の自由」がどんどん拡大されてくると、家庭という集団の中で最低限のルールを守るという話と「個人の自由」がぶつかり合う結果になります。

あまりゴリ押しすれば全時代的と批判されるでしょうが、昔はもっと家庭でちゃんと教育がなされていたという指摘に自分もうなずく事あるので、このバランスをどう取るのが良いものやら子供が成人するような年令になっても悩みは尽きません。

戦中派の親に育てられた世代の感覚は現代から見れば骨董品扱いかと思いますが、昔の教育方法も全てが悪だろうと思うのがこれまた悩ましいところです。

Comment(0)