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忘れない、忘れさせない…「命てんでんこ」に学ぶ

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わたしの地元八戸市は三陸海岸の一部に属しています。自分の生活地域が内陸部ばかりだったことも関連しれいるかもしれませんが「津波てんでんこ」という言葉を恥ずかしながら知りませんでした。

小田嶋隆さんの「ア・ピース・オブ・警句」で取り上げられたことでネット方面でこの「津波てんでんこ」の認知率は急上昇したと思います。

読売新聞の記事では過去の教訓としてこんな紹介をしています。

市は2005年から専門家を招いて子供たちへの防災教育に力を入れており、その一つが「てんでんこ」だった。度々津波に襲われた苦い歴史から生まれた言葉で、「津波の時は親子であっても構うな。一人ひとりがてんでばらばらになっても早く高台へ行け」という意味を持つ。

当初このエントリ、小田嶋さんの「非常時」にあって、反射的に「団結」「連帯」「ひとつに」という言葉が出てくることに、薄気味の悪さに似た気持を抱くのだ、という指摘の部分に自分もそこあたりで感じるムズムズ感を書こうと思っていたのですが、

とりあげる題材として「津波てんでんこ」を調べないことには始まらないと思い検索したら、およそ1年前に放送されたこんなビデオが出てきまして、

なんというのでしょう、この放映している津波に対しての教訓の大切さ、原爆やら悲惨な戦争体験などなど、これまでこういった教訓についての受け止め方でややもすると高度に文明化した社会の中に漬かっていて、そのメッセージを軽く受け止めていたことがあったかもしれない…と反省して、ちょっとエントリの方向性を変更。

1000年に1度の地震ということで、今回起きたような被害をこうむることは普通に考えれば確率的には低いんだろうとは思います。

今後さらに文明の進化とともに研究や対策が進んでいくのだろうとは思いますが、想定外の自然災害が起きたときに頼りになるのは「自分自身」で行動することでしかないという認識をどっかに持っておくって事が必要で、「団結」「連帯」「ひとつに」…というのが悪いということではなく、国、自治体、会社まかせだけでなく、個々人が自立可能な生存力をもったうえで、団体としての効用を利活用していく姿勢が本来の形なのだろうと思いつつ、

この放映されたビデオや、関連書籍、

そして地元の人たちが生活の中から編み出した知恵であったり、大学などでの研究も進められている津波対策であってもやはり災害が起きてしまえば人間の手に負えない甚大な被害が起きるということを体験しました。

こういう震災にあうのは自分たちの世代ではもう起こらないかもしれません。このビデオに出てくる「津波の語り部」の田畑ヨシさんうちの母親とひとつ違いのの85歳で、戦争体験もされているはずで、うちの母親の戦争体験のこともこのブログでは何回か触れていますけど、やはり「こういう体験は2度としたく無い」と思うことを語り続けていく事は、現代においてはすぐに結果が出ることが求められる側面が多いですが、「いざというときで役に立つ」と考える事も悪い事じゃないだろうと。

ここ最近家庭内で「そういう境遇にない(体験できない)んだから、そういう例示をしても理解できるわけがない」という議論をしたばかりなのですが、こうやって文章を書いてみて改めて感じたのは、受け手の想像力を含めた理解能力が問われる問題なのだろうと思った次第です。

原子力関連事業や災害対策の予算、自衛隊の待遇面などいろいろな課題が噴出していますが、予算の仕分けだけではなく、マスコミ側もこれまでは「こんなものが必要なんですか」的な側面からの税金無駄使いの糾弾をして来ていますが、この震災以降、必要な備えとそこに対する適正な予算(税金)投入という、これまた表面的なところだけでは分かりにくい問題・課題を報道していく使命を帯びてしまった訳で、この辺の話しはまた機会を見て触れていくとして、

最後に、ビデオ見て1年前の放映ということで皆さん気になったと思う事、Youtubeの解説のところに記載されていますが、この田畑ヨシさん今回の震災においても事前に避難して無事だったということです。

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