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息子2人(16・18歳)に、私の母親16~20歳当時の従軍看護婦体験を語ってもらった

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自分が今やっている仕事との関係性が、毎月現実として出て行くお金を稼がねばいけないというあまりに現実的な課題と直結すればするほど、自分の中で余裕が持てなくなってしまう時があります。

仕事が順調に入ってくるとか、利益率が高い仕事を得られることで、経営の安定化がわたしの会社の規模であっても、少し実験的なプロジェクトであったり、先行投資的な案件を動かすことができるというのは、精神的に非常に前向きな気持ちにさせてくれます。

あまりに毎日ギリギリの生活では先行投資ができず、自分の存在価値を前向きな形で考えることが出来ない負のスパイラル状態に陥ってしまうのは会社を経営された経験ある方であればご理解いただけると思うのですが、自分のなすべき事というのを自分を含め考え直すために、このゴールデンウィークに83歳のわたしの母親(昭和元年生まれ)が上京した機会を利用して、孫(平成3年と5年生まれ)と話をするなかで意識的に戦争体験を語ってもらいました。

なんでこういう展開?と思われますが、実は母親は従軍看護婦として17歳前後で中国に渡り、大陸で終戦を迎えた経験を持っており、この年齢はうちの息子2人と同じ年代。

戦中・戦後にいろいろな体験して、大陸から1ヶ月かけて復員し自分を生んでくれるまでの20年間においての働くということはどういう事だったのか?であったり、10代で経験した内容を聞くことで、わたし自身の仕事への取り組み方だったり、息子たちが自分たちのイマを考えるうえで何かの参考になれば…と考えてのことでした。

母親曰く、自分は裕福な家庭ではなかったので受けられた教育水準は高くなかった、高等教育を受けた人は太平洋戦争を他の側面(当時メディアが伝えている日本が優勢という話とは別の側面)から見る知識があったかもしれないと思うが、自分たちの受けた教育においては、戦地に行くのは名誉な事だと真剣に思い、その一環として外地を希望したと。

ただし、お国のためと思って訪れた戦地で目にした現実はやはり相当に内地で喧伝されている話とは乖離をしていたが自分にはどうにも出来ることでは無かった…などなど

今回話をしてもらって子供たちと一緒に話しを聞きながら自分でも重く受け止めた話がありまして、それはこんな

戦地に35歳で2等兵として徴兵される人などもいたが、こういう年齢の人が、軍隊という規律社会に放り込まれて、意識・体力どちらにおいてもついていくには無理があって、往復ビンタや体罰をいくらやっても駄目な人ってのはいて、そういう懲罰を目にするのはほんと辛かった…

という一節と、

カルテには軍隊に招集される前に何をしていたかが記録されているのだが、戦地においてもズルするようなタイプはやはり一定数いて、その職業や経歴だけで人間性が立派かどうかは判断できないと思った…

というエピソード。

現代においては、現代なりの悩みや苦労が存在するとして、生きるか死ぬかの世界において人間頑張って順応しようと思っても教育される適齢期を逃してしまうととんでもなく苦労する可能性があるという話と、世渡りをうまくやろうとすることで結果として目の前の問題は回避できても、結果としてもっと大事なところでの信頼を失ってしまう場合があるという話は、会社の仕事を切り盛りしていく立場の自分と、これから大学なりに進学して社会に出て行こうという立場の人間には参考になるとかならないというレベルの話ではありませんでした。

ただ残念ながら人間って自分が体験するまでは本質的な理解が出来ていない事も多くありますから、ここで受けたインパクトをどう自分の行き方に展開していくことが出来るのかがやはりポイントだと痛感した1日でした。

P.S.
当然ながら今回ご紹介したのでは話のごく一部なのですが、最後に、外地体験がある人と内地だけの人とでは戦後復興期において物事の考え方に大きな違いがあることを感じた…という話を聞きながら、うちの母親のような一般人のレベルであってもこういう感想があるということが非常に興味深かった事を付け加えておきます。

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