「若者の進学→就職を夢と混同、就職が夢に直結すると思い込む安易」は大人も一緒か?
64回目の終戦記念日を迎えた15日ですが、この当時から比べるときっと職業選択や人生の過ごし方においてもかなりの多様化が実現しているのでは?と思います。
昨日、とあるつぶやきを辿ったら東進講師である今井 宏さんのブログを訪問する機会がありまして
↑こちらのエントリを興味深く拝見、
彼ら彼女らの夢は、進学したい大学の話か、将来の職業の話ばかりで、夢というものを「進学→就職」と混同してしまう傾向が強すぎるようである。進学→就職ということと「夢の実現」ということを連関させるのはなかなか困難なことであって、それどころか「進学→就職」というお手本的なルートが思い通りに進めば進むほど、それに比例するように夢の実現は遠のいていくというのが、苦い現実であることが多い。森鴎外が「青年」で描いた通りである。
しかし、生徒たちは希望の大学学部に合格することを、夢の実現と信じて疑わない。その先には希望通りの就職が待ち受けていて、医師になり、教師になり、弁護士になり、官僚になり、企業エリートになって、国際社会で大活躍できることを疑わず、かつその程度のことを夢と名づけて、進学と就職と昇進を夢みて育っていくのである。そういう姿を覗き見したオジサンの心には、「あああ、あああ、そういうのは夢って呼ばないんじゃないか。夢の設定の仕方が間違っているんじゃないか」という慨嘆が湧き上がるのだが、今はあえて言わないでおくことにする。
確かにそういうのは夢って言わないような気がするのですけど、そこを分かるまでに相当な時間を要してしまった自分としては18歳くらいの時の夢ってなんかそういうレベルでしか描けないってのが正直なところではないかと思いつつ、
そしてこんな記述が
18歳の若者たちが接したことのあるロールモデルといったら、親や兄弟や親戚以外に、教師と医師ぐらいのものである。
↑これってほんとそうだよなと同意してしまうのですが、田舎暮らしであればあるほどそこで見える将来モデルってかなり限定的なものだったように思います。
自分も今思い返してもしょうがないのですがあのときにこういう情報があれば…とか悔やんだりすることあり、18歳当時バンド活動とか音楽に関わるような仕事に就ければいいな…という思いだけはありましたが具体的な事は何もある訳ではなしで、計画性という点では最低・最悪な状態と言えますが、無理やり前向きに考えるとするとバンド活動とか周りで成功した人間が居ない田舎暮らしの環境だったから逆にロールモデルに頼らずやってこれた側面もあるのかもしれません。
そして久々にスカっとした思いを味わったのは以下の部分、
泌尿器科の医師になったら、引退するまで50年、延々と患者の泌尿器を相手にして生きていかなければならない現実を、彼らは見ていない。以前書いたような気がするが、耳鼻科の医師になるということは、70歳を過ぎて引退するまで、毎週毎週、週5日でも週6日でも、来る日も来る日も人の鼻の穴や耳の穴を相手に悪戦苦闘するのである。そこに患者のいるかぎり、1日100人でも200人でも鼻炎の膿や炎症を抑え続けて、1年300日、50年で15000日、1日100人として1,500,000×2(左右2個の穴があるわけだから)=3,000,000もの暗い穴の膿と炎症と悪戦苦闘し、しかも一度のミスも許されず、一度でもミスをすればその医療ミスはマスコミの好餌となり、早朝から酒井法子家に負けないほどインターフォンは鳴り放題、押尾学以上に突きつけられるマイク、高相なにがしに負けないほど居並んだカメラのフラッシュ、そういうことになりかねない。それだけの責任に耐えて50年が経過し、50年目のその朝にふと爽やかな風を感じて「もしかすれば自分は地域医療に貢献したのかもしれない」と一瞬感じる、それが医師の実際の自己実現である。
う~~む、まさに自己実現という事については、6本の弦を毎日毎日ジャランジャランとかき鳴らす事の積み重ねであったり、音素材をミックスして音楽として仕上げる仕事を通じてかもしれない…、はたまたお客さんが望むWebサイトを構築するためのアイデア提供を週5日でも週6日でも、来る日も来る日も地道に相談に乗ってあげ続け、70歳になったときに何を感じることができるのか?
少なくともミュージシャンとして自分が最高にラッキーだったと感じるのは、ヒット曲のレコーディングに参加することが出来たという事。コピーバンドで自分が演奏したフレーズをコピーして演奏してくれているのを聴くというのはそうそう出来る体験ではないですし、そのギタリストが自分の弾いたフレーズから何かしらのアイデアを紡いで自分のオリジナル楽曲につなげてくれたというようなエピソードがもしかしたらあるかもしれない…という点で「もしかすれば自分はその人の音楽生活に貢献したのかもしれない」と自己実現を一端ではないか?と思われるとても貴重な体験をしたことがあります。
残念ながらホームページ制作業務においての自己実現の形を適切に見出しているとは言えず、今後どのような変貌を遂げていくのかは自分でも見えないところありますが、自分は完全にゼロのところからモノを作り出してくよりも、1とか2のモノを、4とか5、もしくは頑張って10くらいのところまで持っていくのが素養としては向いているような感じが最近していて、この辺の素養と、お得意の「自主独立」をテーマとしての生き方は重要課題になりますから、この考え方とリンクして先の泌尿器科の医師の例のような観点で見た場合、自分の自己実現とはどういうものなのかを44歳でまだ模索する必要ありそうです(苦笑)
冒頭終戦記念日の話からスタートしましたが、昭和初期に選択できる職業の幅は非常に狭くそれこそ家業が○○だからそれを継ぐしかないという環境が大半であったり、例えば私の父や母のような戦争帰還組みは、戦死した戦友のためとか、もう一回は終わった人生だからという突っ走り方をしていた方も多いように思われ、このような社会の関わり方と比べると、この自己実現というテーマは社会が豊かになったひとつの証拠なのだろうと思いつつ、その夢への想いが「挫折の予告」にならないためには、月並みではありますが若者だけでなく、現在社会に出ている大人たちも同様に、自分がこんな人間でありたいと考えることがまず最初の一歩としては重要なのではないか?と思ったのでした。