草間彌生氏デザインの携帯を訳わからんというのは簡単なのだが、一般に理解できる作品だけが流通する社会では非常に困るんですよ(苦笑)
草間彌生氏デザインで制作されたKDDIの100万円の携帯が「グロい」とネットで話題になったりしているようで確かにこの携帯をこの値段でどんな人たちが買うのだろうという素朴な疑問が浮かぶのは当然な事ですが、創作活動において何かしらの対価をいただいて生活していた立場としては、一般に理解できる作品だけが流通する社会では非常に困る側面があるんですよね。
ちなみに芸術方面だけでなく、MITメディアラボの石井裕氏が、テレビ出演時にやはり日本において技術の目利きが居ないという事を嘆いていましたが、IT方面でもこの手の話はいろいろあると思われ、大学における研究分野などにおいて中井浩一氏の『大学「法人化」以後』の中では、企業が基礎研究をおろそかにする側面があり、近視眼的な利益追求やビジネスとしての成果を求める事へ苦言を呈しています。
資本主義社会の中で、利益重視・効率重視は当然のことですが、芸術作品において時代と共に評価が高まり模倣が氾濫したり、パリコレなどファッションの世界でもショーそのもので披露されるものがそのまま流行するのではなく、そのエッセンスの一部などがその年、その年の流行を左右していくなど、儲かるかどうかは別問題として、理屈ではないところにお金を投じてくれるパトロンの存在というのは21世紀においても大切な存在と思うのです。
アーティストなり優れた技術者なり、新しい事を生み出すためには良き理解者だったり、時代時代の巡り合わせなど運の面もあったりしますけど、つい最近日本人の富豪で大正時代に日本人芸術家を支援し、美術や音楽、演劇などの文化後援に惜しみなく私財を投じた薩摩 治郎八(さつま じろはち)という方の存在を知りました。
大正11年当時パリに渡り、月々の仕送りは当時のお金で1万円(現在の価値で約7000万円)だったとか、パリにいた多くの日本人芸術家を援助したが「パトロン気質とは、気に入らないものには1銭も出さないものだ」として自分の気に入らないものには援助しなかったなどなど逸話には事欠かないようで、無名時代の美輪明宏を大変かわいがっていた事でも有名なようです。
技術なり芸術なり、世の中に生まれてその後定着するものってものすごい大変な事で、そこを生み出す事に人生賭けている人たちを支援可能な社会というのは、多様化というものを認める根本的なところでやはりとても大切な事と思う反面、前衛的な作品や先進的な取り組みにトライできるのが、一部ですでに実績をあげた人たちだけにチャンスが巡るのであればこれはこれで実績主義の弊害とも言える訳で、新しいことを生み出していくための「見出し・育てる」という事の重要性をやはり感じずに居られません。