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いくら大新聞といえど、自分が正義って言ってしまうのはどうなんでしょ?

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当初の予定では、金融危機に絡んで中小企業の資金繰りが困難になっているというテレビ報道の際に、なぜに町工場のような映像ばかり流すんだろう、、、という事で書こうと思っていたのですが、この週末「毎日新聞は正義」という話がいろんなところを賑わせることになっており、報道繋がりということでネタを変更です。

wikipediaの「報道」ほうには、ニクラス・ルーマンという方の考え方が紹介されており、

ここから報道に対する指摘の一つとして、「報道に「社会的責任」や「中立性」、「正義」などの「あるべき論」を求めるのは、そもそも間違っている」という考えが生まれる

更に、

報道は、社会的責任などの規範とは別次元の基準で情報を峻別し、多くの人が求めるものを報じる仕組みとなっている。そこへ外部から規範を基準として入れ込もうとしても機能するわけがない

と、ありますね。

この内容を自分なりに受け入れるとすると、毎日新聞が自分で「毎日新聞は正義」だって言うのは外部から規範を基準として入れ込もうとしても機能しない典型なのかもしれないですね、、、、、

ウルトラマンとかが自分は正義の味方だって言っても、子供ながらに「あんなに毎週ビル壊しといて何を言う」くらいの突っ込みは自分らが子供時代にもしてましたよね、、、それが日本の社会のなかで企業規模も大きく、社会的な影響力をもつ会社で、それも報道機関として日本の3大新聞と呼ばれることろが、自分達で「毎日新聞は正義」って言ってしまうって、、、これってやっぱり思ってはいても口に出しちゃいけない部類の事なんではないでしょうか?

オルタナブログを書き始めてもう少しで1年くらい経過するのですが、もともとニュースを見たりするのは嫌いではなく、好きなほうでしたが、ブログで取り上げるとなると、ネットでの反応をいろいろ参考にするようになり、これまでとニュース・報道に接するときの考え方や受け止め方に大きな変化が出てきたのが自分にとっては大きな収穫と言える事のような気がしています。

限られた紙面や時間の中で伝えられる内容は、その道の専門的な見地から見た場合の情報の欠落、一般人に伝えるための単純化などさまざまな弊害がありつつも、紙面・時間成約からすればこれは致し方ないことで、報道を受け取る大衆との信頼関係を成立させるためには、受け手がメディアリテラシーを持つことも当然ながら、情報を発信していく側の姿勢というものも重要なはずですよね。

新聞が良く言う、「我々」とか「大衆」というものが一般目線とはすでにずれているのでは、、、という話はネットでこれだけ多くの人たちの知識や意見が参照できる状態になって、以前から感じてはいたけどやっぱりね、、、的な状態になっていると思っていて、

自分の親の世代はNHKが放送してるんだから信用できる的な判断している人が多かったように思うのですが、個々人の考え方などが多様化することは民主国家としては正しい方向性であると考えつつも、ネットの出現からこれまでの想像の範囲を超えるスピードと量で、多様性が生まれる状態になってしまい、これをどう取り込んでいくのか、、、という観点において、

比較的低年齢から学校教育において、メディアリテラシーに関する教育を施すことや、別段ジャーナリストを目指す人ではなくとも、これからの時代、散在している事物や人について現在起こっている出来事、流れ(トレンド)の情報を集め、検証し、レポートし、分析する技能・訓練を継続的に積み重ねていくことの重要性を強く感じるのでした。

なんせ、情報配信してくる相手は自分の可謬性には目もくれず、自分は正義だ!って意識で情報リリースしてくるんですからね、、、、

※本エントリーにおいては、エントリー中で紹介したwikipediaに記載のされている表現を一部借用して文章記載しています。

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