【タイトル思いつかず仮】自分もいつかは死ぬ。
この世に生を受けた以上、自分もいつかは死ぬ。
それは突然やってくるかもしれないし、もっと先かもしれない。
それまでの間に自分は何を残せるか。
その残してきたものがまわりの人達に対して、どんな影響を、どれだけ、
しかも良い形で残すことができるかどうか。
やり方に答えがある訳では無い。
日々を常に真面目に生きる。
それだけで何とかなるもんではないだろう。
昨年から今年に掛けて、自分の身の回りで、という訳ではないけど、過去色々目にしたり耳にしたりした方の訃報を聞くことが多くなった気がする。
大瀧詠一さん、永井一郎さん、納谷悟朗さん、小林カツ代さん、佐久間正英さん・・・。
書いた順番に特に意味がある訳では無い。他にももっとたくさんいらっしゃったと思う。
ただここに書いたのはぱっと思いついたお名前、およびその思いついた順なので、何であの人入ってないんだ?と思われる方がいらっしゃったら申し訳無い。
そんな中でも、昔からずっと好きだと人に言っていたとあるミュージシャンが12月で無くなったことはちょっと衝撃だった。
それはもう本当に突然の訃報だった。
もちろん自分に直接連絡がある訳では無かったのだけど。
昨日、その方の「お別れの会」が開催される、ということで行ってみた。
斎場では、その方の演奏がずっと流されていた。
正面にはその方の遺影も飾られている。
元々直接お会いしたことも無ければお話ししたことがある訳では無いので、その存在が消えた、ということ自体は自分自身としてあまり実感は沸かない。
今までも雑誌や動画でお姿を見てきただけだから。
※一度、mixiのコミュニティでコメントを交わさせていただいたことはあったが。
そこは、多くその「お別れの会」にいらっしゃっていた大物ミュージシャンの方々とは相当印象は違うと思う。
振り戻ってみると、好きだと言ってた割に、その方のプレイを生で見たり音源で聴いたり、という機会は、その人が産み出してきた年数や枚数から言えば、驚く程少ないことに気づく。
恥ずかしい限り。
そして、もう見ることはできない。後悔先に立たず。
システムの要件定義のように資料として起こすことは無いけれど、普段の生活において、意識的・無意識問わず、日々の行動に優先順位を付けている。
そう考えた時に、それだけ見たり聴いたりという経験が少ないということは自分の中で優先順位を落としていた、ということに過ぎないのだと思う。
ひどい話だ。好きだ、と言ってることがいかにいい加減か。
斎場で流れる演奏を聴きながら、自分が公言してきたことと自分の行動とのギャップが「偽善」に感じられてきて情けなく思った。
もう少し仕事が落ち着けば、とか、ゆっくりできる時間があれば、もっとその人の音楽も楽しめるはず・・・。
という言い訳を元に逆に深く聴こうとしなかっただけだ。
どのように「贖罪」していけばいいだろうか。
それはその人が残してくれた作品をもっと聴いていくことしかできないだろう。
そんな状態なので、その方自身のお名前をテキストとしてここに記述するのは、あえて控える。
ただその方にはあらためてお礼とお悔やみを申し上げたい。
ありがとうございました。