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[エッセイのような独り言]アナログ・ネイティヴス

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 高校の時、うちには電話が二台あった。
 台所に一つと玄関に一つ。
 どちらかを使っていたらもう一台は使えない、という、今は死語かもしれないが「親子電話」というやつだった。

 当時、ある意味では本当に“初恋”と言える彼女が居た。

 彼女の声が聞きたくなったら、電話するのはいつも“玄関の方”で。台所は親の和みスペースでもあったから、そこで彼女となんか話できない。
 玄関で、といってもそこは特別なスペースでは無いので、続きになっている狭い廊下を時々親が通ったりして、
「電話、ええ加減にしいや!大事な電話がかかってきてもわからへんやないか!」
と嫌味を言われ、
「これも大事な電話なんや!」
と反論する。
 あげくになけなしのお金で自分で十五mもの電話線の延長コードを買ってきて、玄関の向かいにある小さな物置みたいな所に電話機を持ち込んで話をしていた。

 電話をかけるのは決まって自分から。
 彼女は「緊張するので…」と自分からはかけられない、と言っていた。
 だいたい電話するタイミングはいつも決めていたから、彼女自身が電話をとってくれるのだが、たまに、いやそれは運が悪い、と言っていいのかわからないけど、彼女のおやじさんが電話に出たりして。
 おやじさんの場合、受話器をとったな、と思ったら、二~三秒後に不機嫌そうな声で、
「はい」
と言う。
「○○さん(←彼女の名前)居ますか?」
と尋ねると、
何の返事もなく、ちょっとした間があってから、受話器の向こうで
「○○、電話やで」と声がする。
 時には、
「今日はほどほどにしとけよ」
と、それは彼女に言っているのだが、自分への投げ掛けのような声も聞こえてきたりしていた。

 環境は変わるものだ。
 数年して、自分は大学生になった。
 あれだけ好きだった彼女とも別れてしまった(正確にはフラれたのだが)。
 しばらくして、新しい彼女ができた。
 これらも一つの環境変化だが、もう一つの環境の変化として、玄関にあった電話機が、自分の部屋の真向かいの位置に配置転換された。「親子電話」であることには変わり無いが。
 ただこれにより、例の長い電話線を用いて自分の部屋に持ち込んで、ふとんにかぶって電話ができるようになった。
 そして、一つ覚えた技がある。彼女から何時に電話がかかってきても、家族中の誰よりも早く電話がとれるようになったのである。この技は今も活かされていて職場で目の前に電話があった時、自分は誰よりも早く電話をとることができる。普段(社会勉強のためにも)「電話をとれ」と先輩達に言われている若者達には、
「練習にならないので勘弁して下さい」
と言われつつ、
「どうしてそんなに電話をとるのが早いんですか?」と尋ねられることもある。
そう尋ねられた時には「まぁ、そんな特技もあるわな」と適当に答えてはいるが、その理由はそんなバックボーンにある。しかし、それをきちんと説明したところで今の若い人達には理解できないであろう。今は固定電話なんかじゃなく、ケータイで話すのが当たり前。自分でかける時、相手がかけて来る時、本人が出て当たり前。自分がかけた時、相手がかけたいと思った時、誰にも邪魔されない所で話せるのが当たり前だから。

 昨年行ったビジネスフォーラムで外国人の偉い先生が提唱した言葉を言っていた。私達は「Digital Immigrants(デジタルの世界に移民して来た人達、という意味か)」なんだそうだ。一方、今の若い人達はパソコンやケータイ等のデジタル機器が当たり前に揃った世界で生まれ育った「Digital Natives」なんだそうだ。なるほど、確かにそうなのかもしれない。よく若い人達の行動等を見ていると、何故そう考えるのだろう、何故そう行動してしまうのだろう、と思うことがある。何故理解できない?当たり前だ、暮らしてきた環境が違うのだ。そもそも生き方が違うのだ。それを同じ土俵で考えること自体無理があるのである。

 じゃあ自分はそんな便利な世界でDigital Nativesとして暮らしたかったか?と言えばそれはNoだ。確かに誰にも邪魔されずに話できたり、連絡を取りたい時に取れることができれば、喧嘩もせず、誤解もせずうまく行ったシチュエーションも多々あったように思う。

 でも、自分は、相手の家に電話する時のドキドキ感や親にまた嫌味言われるんじゃないかというハラハラ感や電話がかかってきた時に家族に気づかれないようワンコール鳴るか鳴らないかのタイミングで電話をとるスピード感・スリル感を今思えばそれなりに楽しんでいたし、そういう様々な感情を持てたことは決して今の自分にとってマイナスにはなっていないと思う。そんな感覚は今の若い人達に言った所で共感できる訳も無いし、共感したくも無いと思うけれど。

 だから、自分は「Analogue Natives」として生きて来れたことにある意味誇りを持っている。

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