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ITに強いビジネスライターとして、企業システムの開発・運用に関する記事や、ITベンダーの導入事例・顧客向けコラム等を多数書いてきた筆者が、仕事を通じて得た知見をシェアいたします。

自己啓発も勤勉も時代遅れ

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先日、『目の前のことに取り組めないから困ってるんでしょうが』という記事を書いた。

この中で、スマイルズの『自助論』を成功本の古典であり、爾来150年以上成功本は進歩がないと書いた。

ところがこれは大きな誤解だった。

 

『自助論』の原本は成功本ではない

 

それを知ったのは、『「自己啓発病」社会』(宮崎学)という本を読んだから。誠ブロガー仲間のしごとにんさんに薦めてもらった。 

41VO9YZJ16L__AA160_.jpg一言でいうと、2000年ぐらいから始まった「自己啓発」ブームを批判する本。

このブログと近いところがあり、かなり共感して読んだ(僕は実態についてはその通り書くが、いちおう批判はしていないつもり。そうは見えないかもしれないが)。

自助論に関わる部分だけ、おおざっぱに説明すると以下のようになる。

『自助論』の原本は、『Self-Help, with Illustrations of Character and Conduct』という本である。これを明治に中村正直という人が、『西国立志編』という書名で翻訳した。

以下、英語の原本と『西国立志編』をひっくるめて『立志編』と呼び、現在三笠書房から出ている竹内均訳の『自助論』と区別する(竹内訳は以下も『自助論』)。

実は『自助論』は『立志編』の抄訳であり、肝心な部分が訳されていないというのが宮崎さんの主張だ。僕は『立志編』を読んでいないので、今すぐそれが本当だと確言はできないが、アマゾンでも取り寄せ可能な書物(原本も中村訳も)なので、ここでうそをつくはずはないだろうと思う。

『立志編』は、いわゆる成功者の物語よりも、発明家や技術者や科学者の苦労話を、当時勃興してきた職工階級、つまり労働者に紹介することで、勤勉の尊さを説くのが目的の本だというのだ。

その旨が『立志編』のまえがきには明記してあるのだが、『自助論』では翻訳されていないとのこと。

その他でも、労働者のための本だとわかるような部分は省略されているいうのが宮崎さんの言い分である。

確かに、僕も誤解したように『自助論』には"成功本"に見えるような編集がなされているように思う。それで現在も人気があるのだろう。

まとめると、本来の『立志伝』は労働者階級に勤勉の尊さを説いた本(まさにプロテスタンティズムだ!)であり、現在日本で売られている『自助論』はそれを成功本に見せかけている(疑いのある)本だということだ。

つまり、成功本が150年進歩がないということではなく、150年以上も前の本を成功本に見せかけているということのようなのだ。

 

自己啓発では自助は得られない 

 

宮崎さんは、自己啓発ブームとポジティブシンキングブームを『脳内革命』に始まるとしている。それが正しいかどうかは別として、感覚としてよく分かる。

ちなみに脳科学の世界では、『脳内革命』は"トンでも本"扱いだと聞いている。"トンでも本"でない脳科学関係の本のほうが少ないと思うのだけど(池谷裕二さんの本ぐらいしか思い浮かばない)。 

詳細は、『「自己啓発病」社会』を読んでください。成功法則とかポジティブシンキングとかにうんざりしている人には溜飲が下がる本だと思う。

さて。

先日の記事「大地震から1年、大人にならなきゃーあるいは「踏まえる力」の提案」にも書いた。

自助とは専門知識をつけることだ、と。専門知識で分かりづらければ、人の役に立てる力を身につけることと言い換えてもいい。

自助とは人に頼らないことじゃない。自助できる人が集まって、お互いに助け合う。これが互助。

互助が社会のしくみになったら、それを公助と呼ぶ。

なお、世の中には様々な理由で自助が難しい人もいる。そのような人たちは互助や公助のしくみができてきてはじめて救われる(注)。

公助が確立した社会を作らないと日本はジリ貧だというのが、(僕の解釈では)宮崎さんの意見。

すると自助というのは、互助・公助につながっていくのが前提となる。

これは、現在の自己啓発ブーム(僕の言い方をすれば成功哲学ブーム)では得られない。

なぜなら、成功本は他人の出し抜き方を教えているからだ。

(注)互助や公助が確立していた江戸時代においては、たとえば統合失調症の人でも隔離されずに共同体に属していたという意味で、自助していたと言えるかもしれない。しかし、ミッシェル・フーコーがいうところの牢獄や病院が整備されてしまった近代管理社会においては、「救う」というしかない。

 

「自己啓発病」社会のヒエラルキー

 

以下の説明はややまだるっこしいと思うので、理解のために図解しておく。 

2012031301.jpg

この図は、宮崎さんがこういうことが言いたいのではないかということを、僕なりの用語で図解したものだ。宮崎さんがこのとおりに言っているわけではなく、当然ながらこんな図も描いていない。宮崎さんの考えそのままではないことに留意願いたい。また、以下にも宮崎さんの考えのように書いている個所があるが、それも僕の解釈だということを先に断っておく。

さて、左側のピラミッドが「自己啓発病」に冒された人たちが構成するヒエラルキーだ。一部の成功者とその取り巻きが最上位階層を作り、彼らにあやかろうとその他大勢が群がってくる。

群がってくる人の本音は、他人を出し抜くこと。成功本は、深層でそのニーズに答えている。だから、その著者に群がる。

群がる人たちの中で、利用価値のある人(注)は引き上げられて幹部にしてもらえるが、それ以外は搾り取られるようになっている。

搾り取られると言っても、買わなくてもいいような本を買わされる程度のレベルから、それこそ"壺を買わされる"レベルまで多種多様だ。オセロの中島さんのように、洗脳されて財産を失う人もいる。

ピラミッドの中にも気高い人たちはいる。僕がいうところの"僧職者"になる人たちだ(このような人たちに関する言及は『「自己啓発病』社会にはない)。彼らはしくみがよく分かっているので、最上位階層とは少し距離をおいている。

とはいえ、ヒエラルキーの一部であり、「自己啓発病」社会の維持に一役買っているのは確かだ。

以上が、成功哲学の深層だ。実態はこのようなことなので、成功哲学はことさらキレイな言葉(たとえばポジティブなど)で飾り立てられることになる。

特に日本の成功哲学はそうだ。アメリカ人なんかはもっと正直で、自著に平気でこの本を読んでも実行するのは5%以下などと書いてある。確信犯だ。20人に1人は仲間にするつもりはあるよ、と言っているのだ。

(注)自分が利用価値があると思われているかどうかを簡単に見分ける方法がある。成功者が主催する自己啓発セミナーに無料で招待してもらえるかどうかだ。

 

勤勉もまたダメ

 

さて図の右側は、「自己啓発病」にかかっていない"健常者"たち(僕は"地に足がついている人"と呼んでいる)。

ここには、ヒエラルキーはないが、大きく2つのグループがあるように思われる。

成功法則に対して、「そんなうまい話はねえだろう」と冷静に距離をおきつつも、単に勤勉なだけの人たち(自分が努力していないからダメだと思っている人も勤勉が大事だという意味で仲間だ)。

この人たちは、働き者も怠け者も、パターン3に移行しやすいという傾向がある。

僕のミッションの一つは、まずこの移行を減らしたいということだ。

3行ほど前に「単に勤勉なだけの人たち」という表現が出てきた。違和感を感じた人が多かったのではないだろうか。

実は、宮崎さんは「勤勉」も批判しているのだ。

『立志伝』がいい本だとしつつも、もはや勤勉に努力すれば報われるという価値観は時代遅れだとするのだ。

その理由が、ご本人が怠け者だからというので、僕は"完全共感"してしまった。僕も怠け者だから。

それよりも仕事そのものを楽しむこと。

これさえできれば、成功だの自己実現だのそんなものはどうでもいい、と言うのである。

まったくその通りだと思います。

同時に、僕のもう一個の、そしてもっと大事なミッションは、仕事それ自体が楽しい人を増やすことだと気づいた。パターン3になりそうな人たちを減らすという消極的なミッションよりも、なんだがいい感じである。

では、どういう人が仕事それ自体を楽しんでいるのか?

長くなったし、テーマも変わるので、次回に回そうと思う。

ちょっと前置きをしておくと、僕は最近以下の2つのことをよく聞く。

一つは、「21世紀は女性の時代だ」ということ。もう一つは、「自分は職人志向だ」という人が増えていること。

なぜこういうことを言う人が増えているのか。それを読み解くことでいろいろと見えてきそうな気がする。 

このブログは、仕事それ自体を楽しむ人を増やすことを目的に書いています。

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