計画法を学んでいないことによる、さまざまな悪影響
計画していないから「犬死に」
「曖昧な決定」、「議論をしたがらない」、「減点評価法から抜け出せない」、「技術の業界であるにもかかわらず、頭数での単価計算から抜け出せない」、「終電などの理由でしか家に帰ることができない」、「根性論になる」、など、さまざまな悪しき習慣を、良くないとわかっていながら、どうにもできないのは、クリティカルパス法のような高い精度を実現できる科学的計画法を、実用レベルまで勉強していないからではないかと考えています。
科学的計画法を実践するためには、裏付けのある情報が重要となってきます。計画法がいくら良くても根拠となる情報がいい加減では意味が無いので、精度の高い計画法を運用するということは、必然的に精度の高い情報収集活動を運用することになります。当たり前のように「曖昧な決定」はなくなってきます。
詳細な情報と、それらを詳細なまま活用できる計画法があれば、議論すべきネタはいくらでも出てきますから、自然と議論を行うようになります。議論すべきネタを認識できていないのに「議論をしろ」といっても無理だっただけです。「コミュニケーション」も同じです。コミュニケーションすべきネタを掴んでいないのに「コミュニケーションをもっと」と言われてもどうにもできませんし、せっかくの「コミュニケーション・スキル」を活かすことができません。
詳細な情報による計画があるということは、個々の詳細な達成目標を明らかにできるということですから、うまくいった事が明らかにできるので加点式の評価ができます。もともと何をどのようになすべきかが曖昧なので、減点しかしようがなかっただけです。同じ意味合いで、頭数ではなく、「できる事」の方で単価計算をして見積りを提示できるような業界全体のコンセンサスが生まれてくるでしょう。
その日に何が実現できれば良いかが、現実的かつ詳細な計画によって明確になっていれば、今日行うべきことが終われば、終電などの理由をつけなくても、帰っていいはずです。もともと現実的でなかったり、その通りにやっていてもうまく行きそうにない計画しかないから、倒れるまで働いたかどうかぐらいでしか評価できないという、「根性論」になってしまうわけです。
マネジメントという視点では、根性論は極めて低レベルの発想です。元自衛官として、断言できます。
根性論は、やれることをやり尽くして、最後に効いてくるものであって、情報収集や計画がいい加減では、「犬死に」になります。
生まれないのではなくて、評価できないだけ
また、日本に新しいモノ(コンセプト?)がなかなか生まれないのは、正確には、生まれないのではなくて、日本人自身が(日本のマネジメントが)日本の良いものを評価できない事によって、世界に自信をもって発信できないからだと思っています。
いいアイデアを思いついてもなかなか会議で発言できないのに似ているのではないでしょうか? いくらでもいいモノは生み出せていると思います。実際、日本人が国際会議などでなかなか発言しないというのは、世界的に知られているところです。
「プロジェクトマネジメント、特に中心である計画法」を知らない事がコアとなって、上記の悪しき習慣から抜け出せず、評価もできないことによって、日本人が自ら日本人の生み出した新しいものを潰している、技術者が目前で生み出している素晴らしいモノを、日本のマネジメントがきちんと評価し、世界へ向けて強く発信して行く事を怠っているからだ、と思っています。
計画ができず、評価ができないことによって「目の前で起こっている素晴らしい事に気づかないという、不作為」を生み出しています。
少なくとも、計画法をしっかりと理解することによって、日本のIT業界、業務システム開発業界が広く抱える極めて多くの問題点が改善できることは、実証できています。