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人を動かすものは何でしょうか?様々な「座右の銘」から、それを探っていきたいと思っています

震災の報道のありかたについて

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まずは、震災の被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。
私は阪神大震災の被災者です。そのときも「生き地獄」を味わいました。
しかし今回の東北地区の津波と原発事象(事故かもしれません)については、「生き地獄」をはるかに超えた、まさに地獄であると感じました。

11日から、報道は震災一色です。しかし残念なことに、事態を冷静に、客観的に、ありのままに報道しているのは非常に数少ない、と感じました。被災地がどれだけ悲惨であるかということにだけ焦点をあてた報道、政府の対応のまずさを批判するだけの報道、関東地区でさえ物資が思うように確保できないということを過剰なまでに見せつける報道・・・それらの多くは、住民の不安を必要以上にあおり、人々から生きる希望を奪い、見ている人をやるせない気持ちにさせていると感じました。

そんな中、テレビ朝日で、池上彰さんの「学べるニュース」の特別版がありました。
伝えている内容そのものはほとんど同じなんですが、明らかに、今までの報道番組とは違うところが2点ありました。それは、

 1.やたらわかりやすい
 2.過剰なほど、伝え方がポジティブで前向き

なことです。1.はさすがに池上さんだ、という部分なんですけど、2.が面白い、と感じました。
同じニュースでも、ここまでポジティブに、前向きに、見ている人に絶望ではなく希望を与えることができるのか、と感心しました。

例えば、放射線量の話。ここでは、次のように報道されています。

文部科学省は16日、福島県内各地で測定した放射線量を発表した。福島第1原発から約60キロ北西にある福島県庁付近で同日午前、1時間当たり18~20 マイクロシーベルトの放射線量を観測。通常の約400倍に相当し、24時間屋外にいた場合、2日間で一般の人が1年間に浴びていいとされる1000マイクロシーベルトに達する計算になる。

ここに書いてあることはすべて客観的な事実であるように見えます。福島県庁付近はものすごく危ない状況になっているかのようです。

しかし冷静に考えると、いくつかの疑問点も浮かんできます。

  • 「通常」の放射線量は、お話にならないほど極めて少ない。今のような異常事態を、「通常」と比較してもいいものだろうか。
  • そもそも、今のこの状態で、24時間外にい続けることが現実的にあるだろうか。
  • 「1時間当たり18~20 マイクロシーベルトの放射線量」が、2日間も続くことがあるだろうか。

これらのことを、「学べるニュース」は私よりももっとわかりやすく解説していました。つまり、これらの数字が報道されていても、現実はもう少しだけ楽観的に考えてもいい、ということです。
記事はこのようにも書かれています。

庁舎内は1.5マイクロシーベルトで、屋外の約8%だった。

ということは、建物の中にいるだけでも、放射線被ばくはかなり防げるのです。建物の中で待機せよというのには、これだけの理由があるのです。

もちろん、楽観的なことだけではありません。放射線を浴びる、いわゆる「被ばく(「学べるニュース」では、やけどを伴う「被爆」と、単に放射線を浴びただけの「被曝」の違いも説明していました)」には大きく2種類ある、ということも説明していました。それは、

  1. 放射線物質が身体の表面につき、外部から放射線を浴びる「外部被ばく」
  2. 放射線物質を吸い込んだり飲み込んだりして、体内なら放射線を浴びる「内部被ばく」

です。詳しくは書きませんが、福島原発の今の状況ならば、外部被ばくであれば、すぐに除染(早い話が身体を石鹸や水を使って洗うこと)すればさほど問題ないけれど、内部被ばくであれれば身体の中から放射線を浴び続けることになるから危険だ、というわけです。このように、本当に危険なことと、さほど危険ではないことをちゃんと分けて説明していたわけです。

おそらく、ほとんどの報道がとってもネガティブで、後ろ向きで、絶望しか与えないことを危惧して、この番組を作ったのでしょう。池上さんが提案したのか、誰かプロデューサーが提案したのかはわかりませんが、目的は「視聴者の不安を少しでも取り除くため」であると推察します。

私は別のことを考えていました。「災害の報道はポジティブに、前向きにやることもできる」ということを実証してみせた、と感じたのです。もっとも、多少わざとらしいところもありましたが、それでもかなり考えつくされた番組であると思いました。

なんでも懐疑的にものを見る人からすれば、わざとらしい、過剰に前向きすぎる、事態の深刻さをわかっていない、と見えるかもしれません。また、それらの批判はあたっているかもしれません。でも、すべてのものは相対的で、どうとでも解釈できるものばかりです。それこそ「コップに水が半分しか入っていない」のか「半分も入っている」のかの違いでしかありません。

だったら、どうせなら、生き残った人たちに対して少しでも前向きに、生きる希望になるような報道をするってのも、報道に課せられた責務ではないか、と思います。過剰に悲惨さを強調する報道と同じぐらい、過剰に生きる希望を与える報道もあってよいと思います。良くも悪くも、我々は報道に左右されているのですから。

逆に言えば、ほとんどの報道には、記者の主観が入っているということを忘れてはいけません。客観的な事実を述べているのか、記者の意見や感想なのか、報道に(いい面でも悪い面でも)過剰なところはないか、よく見極める目を持つ必要があると思います。こんな非常時だから、こそ。

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