パワハラ上司の罪について考える。
「何年か前、物凄いパワハラ上司の元にいたことがあって以来、自分のキャリアを考えるようになったんです」
こう聴くと、
「メンタル的に何かあったのかな?」
「それとも、こんな上司の元で仕事をするのは、うんざりだ!と思ったのかな?」
と想像しますが、続けて出てきた言葉はこうでした。
「パワハラ上司を見ていたら、『こういう人が出世する会社なんだ』『さらに上も、こういう人を評価するんだ』と思ったんですよね。で、そういう人が評価されるとして、この上司が言ったりしたりしているようなこと、自分もしなければ、管理職になれないとしたならば、はたして、私はそういう管理職になりたいのだろうか、そういう場所で管理職になるのが自分のしたいことだろうか、と考え込んでしまったんです」
おお、なるほど。
管理職になって、人を束ねて、今より大きな規模の仕事に取り組むと言うこと自体には関心があるのだけれど、今いる場所でそれを目指そうとすると、パワハラ的なことも厭わない人間が求められているんじゃないか、それは、嫌だなと思ったというわけです。
ある組織で誰が重用されているか、というのは、どのポジションの人にもなんとなくは伝わってきて、それが部下からすると、「その組織の評価基準なのだろうな」と思わされてしまうことがあります。たとえば、上司とよく飲みに行く人、2次会でも3次会でも厭わずについていくような人が重用されていたら、「ああ、飲みに行くことが管理職になるための一つの基準なのかな」ということが伝わってしまう。(もちろん、評価基準はそれだけじゃないのでしょうけど、少なくとも、端からはそんな風に捉えられてしまう)
もし、ある組織で、「パワハラ」が認定されたら、さっさとそのポジションから外す。たとえ、その人がどれほど実績を挙げていたとしても、パワハラがあるというだけで、即ポジションから離す。そういう人事がなされていたら、「ここは、そういうことを許さない組織なんだ」ということもまた誰にでも伝わるわけです。
組織には、昇格要件として、具体的に何ができる、とか、どんな試験に合格するとか、色々明記されているところが多いと思いますが、それだけじゃなくて、暗黙の了解的なルールも多々あるはずで、その一つに「実績は挙げていようがパワハラ的なことは許さじ」なのか、「実績さえ挙げていれば多少のパワハラは目をつぶろうじゃないか」なのか、も含まれるのでしょう。
管理職志向が薄まっていると言われる今の時代ですが、若者が管理職を目指して、大きな仕事をしたいな、と考えていたとしても、「それは、ここじゃない」「ここで、ではない」と思わせてしまうとしたら、パワハラ上司というのは、なんと罪深い存在なのだろうと思った次第。
それにしても、パワハラする人って、不安が大きいのでしょうか? 私もずいぶん前にとてもパワハラ的な上司についたことがありますが、ゆうに10年以上経ってふと振り返ってみるに、あの上司は、実は自信がなかったのか、何か世間に対して牙をむいていないと自分を守れなかったのか、なんだったのだろう?と思います。理由を聴いてみたいな。まあ、二度と会いたくないけど。
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【こんな本を読んだ】
※ひどい例がたくさん出てくるんです。そして、そのひどい管理職や経営者の元から離れられない人の例もまたたくさん出てくるんです。「辞めればいいのに」とは外野がよく口にする言葉ですが、そうも話は簡単ではないというのが、このハラスメントの難しいところなんだなぁと思いました。
上記の本のタイトルを調べるため、Amazonで「パワハラ」と入力したら、本と共に、たくさんのICレコーダーや隠しカメラが紹介され、びっくりしました。そういう時代かー、なるほど。