「で、答えは何ですか?」:唯一の正解を求めたくなる症候群
受講者参加型のワークショップ研修を主に行う企業のトレーナー(というか、ファシリテーター)とお話していたら、「答えを欲しがるんですよね」といわれ、なるほど、それ、わかるな、と思った。
(つまりは、同業者と話したということです)
この方は、いろんな要件に基づいてシステム構成を考える演習を行うことが多いそうだ。
3-4人のグループで、「要件から読み取った提案」を考えた結果を発表し合うというものだという。
当然、グループごとに答えは異なる。アプローチも異なる。
それぞれの良い点、もう少し考えたほうがいいかな、という点もあるのだろう。
参加者同士でコメントし合ってよりよいものに改善していく。もちろん、トレーナー(というか、ファシリテーター)としてもフィードバックをする。
そういうワークショップ形式の研修というのは、たいていの場合、唯一無二の答えは存在しない。
けれど、大勢が、最後に言うのは、「で、答えは何ですか?」である。
仮にトレーナー(というか、ファシリテーター)が、「これが、私たちが用意した"標準解答例"です」といって提示すると、それを書き写す。そこまではよいのだが、問題は、参加者の頭の中で、「正解はコレ。他のはダメ」と言う風にインプットされてしまうことだという。
参加者同士で作ったものにも、「良い点」「改善の余地がある点」があり、そこから学べることは多々ある。
研修提供者側が用意しておいた解答例もあくまでも「例」であって、やはり、「良い点」も「改善の余地がある点」もあるはずだ。
なんせ、そもそもが「唯一無二の正解がない」ことを学んでいるのだから。
答えではなく、「考え方」を学ぶ研修なのだから。
なのだけれども、「で、答えは何ですか?」という問いが出て、(「準備していた答えはなんですか?」「標準の解答はどんな感じですか?」という問い自体は問題ない。ケースを用意した側は、どんなことを想定していたのかを知るのに役立つからだ)それを「唯一無二の正解」として大切に持ち帰り、グループワークで出てきた複数の案には関心を示さないというのはもったいない。
ノートにとるなら、全部残したほうがいい。
どこにでも学ぶ点はあるのだ。
「正解を求めてしまう」というのは、若い人の特徴のようによく言われるけれど、決してそんなことはない。
20代でも30代でも40代でも「答えは何ですか?」と気にする。
答えを求めるのはいいけれど、そこで思考停止に陥るのは避けたいところだ。
「標準解答」「準備されていた答え」も「自分たちが考えた答え」もそれぞれに「さらに考えるための材料」として活用したほうがいい。
「唯一無二の正解」はない!というのが現実世界だ。
どんなアイディアが出てきても、何がよくて、何がよくなくて、自分ならどうするか、という視点で考える癖をつけたいものだ。
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ついでにオマケ。
「唯一無二の正解はこれです!」と提示するほうが、参加者はすっきりするので、ワークショップのアンケート結果は高評価になったりする。
「いろいろな考えがあるので、それを持ち帰り、自社のケースに当てはめるために、さらに考えてみてください」という感じで終わると、もやもやが残るため、アンケート結果は芳しくない、というのも問題だと言っていた。
これは、同業者としてとてもよくわかる。
でも、「学習」といった場合、どちらが望ましいのだろう。
「もやもやして帰社し、さらに勉強しようと思った」ならば、学習効果が高かったと言ってもよいように思うのだが。
「講師評価」とか「研修の評価」が、様々なことの指標になっていると、「すっきりさせて返したい」という気持ちになるのだという。
ああ、わかる。
これ、トレーナーのジレンマである。