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人材育成の現場で見聞きしたあれやこれやを徒然なるままに。

第20話:また逢う日まで ~お友だち・山本小鉄さんへの追悼~

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1999年10月から母校上智大学の社会人向け講座で学んでいる。小林順治教授のお人柄に魅せられ、春期・秋期と単発の公開講座にも関わらず、毎期少しずつリピーターが生まれ、今では、リピーター数15人を超えるほどだ。

2008年4月、一人の男性が仲間に加わった。その人は教室の真ん中に座っていた。恰幅がよく、スキンヘッド。Tシャツに半ズボン。威風堂々としたたたずまい。なんとなく近づきがたくて誰も話しかけずにいた。



何度目かの授業の後、四ツ谷で懇親会。

まずは、一人ずつ自己紹介。その男性は「ヤマモトマサルです」と名乗った。

「どのようなお仕事を?」と尋ねると、一瞬躊躇するような表情を見せた後、「プロレスラーです」とおっしゃった。

「ああ、だから立派な体格なのですねぇ」と一同納得し、自己紹介は次の人へと移った。



宴もたけなわの時、会話の流れでヤマモトさんは「ボクはリングネームを小鉄と言いまして」とぼそっとつぶやいた。途端に全員の目がまん丸になった。

「えーっ!あの、山本小鉄さんですか?」「あの、伝説のプロレスラー、鬼軍曹と怖れられた小鉄さんですか?」と。

大学で机を並べるスキンヘッドで巨漢のおじ様が、かの山本小鉄さんだったとは! オドロキ過ぎてみな絶句。

その席で小鉄さんが話してくださるプロセスの話は、どれもこれも楽しくて、爆笑の連続。クラスメイトの中にはかなり強烈なプロレスファンがいたものだから、彼らなど大感激だった。

そして、その日から私たちは仲良しになった。



小鉄さんは、いつも早目に教室に到着し、居住まいを正して静かに授業開始を待っていた。丁寧にノートを取り、真剣に受講していた。

奥様に薦められ、65歳になってから一緒に通うことになったという小鉄さん。初めての授業の前日、「明日から大学に通うんだと思ったら、眠れなくなった。〝鉛筆〟〝ノート〟と想像していたら興奮してしまって」なんて笑顔で話してくださった。

授業の後は、同じ時間に別の授業を取っている奥様といつも待ち合わせ、四ツ谷駅前で食事してから帰宅するのがお決まりのコースだった。

奥様とは本当に仲良しで、「生まれ変わっても女房と結婚する」という小鉄さんに、「その秘訣は?」と尋ねると、「とにかく、よく話をすることです」と即答が返ってきた。「折角出会い、好きになった相手なのだから大事にしなくては」ともおっしゃっていた。

とにかく愛妻家、家族想いの小鉄さん。



弟子達に「プロレスラーである前に社会人。敬語を勉強しろ」と敬語の本を渡したこともあるとか。 とても厳しく指導したというのは世間で言われている通りのようだ。

そういう父上の一人娘であるお嬢様にある時、「お父様、授業中に眠くならないの?」と訊かれたそうだ。

「もったいなくて居眠りなんかできるか」と小鉄さんは笑って答えたとか。そのお嬢様のことは「今日は誕生してから○日目」と日数で答えるほどの愛しようであった。

その後、お孫さんが誕生してからは、「娘に加えて、孫の分もあるから大変!」と微笑みながらも「娘は○日目、孫は△日目」とおっしゃっていた。



2008年春期最後の授業では、小林教授の計らいで小鉄さんのお話を聞かせていただくことになった。幼少期からプロレスラーとして活躍するまでのわくわくするようなストーリー。

貧しかった幼少期、新聞配達で毎朝360軒を回ったが、新聞紙を支える一本の紐が肩に食い込んだとか、力道山先生(と小鉄さんはおっしゃっていた)に弟子入りしたこと(小鉄さんは弟子入りの申し出を身体の小ささを理由に断られている。トレーニングに精を出し、身体を作り上げてから再度門を叩き、入門を許されたそうだ)。

お母様には「いつかキャデラックに乗せてあげる」と約束し、それを叶えたこと。

奥様が高校2年生の時に知り合い、お付き合いが始まり、ヤマハ・ブラザーズとしてアメリカ遠征時代は何100通もの手紙をやりとりした話。

知り合って46年になる奥様のことは「どんどん愛おしさが増してくる」とも。最後は、「友達づきあいでも夫婦でも相手を思いやる気持ちと感謝が大事だよ」と締めくくった。

何もかもがしみじみと心に染みるお話だった。



授業がない春休みや夏休み。私達クラスメイトは、「大人の遠足」などと称して一度は逢うことにしていた。その仕上げには、月島のもんじゃ屋さんをいつも利用している。小鉄さんにも声を掛けると、「行きます」とおっしゃって、一緒にもんじゃをつついたものだ。

プロレスファンの友人に言わせれば、「同席を許されることもないほどのお方」だそうだが、私は酔った勢いで「うわー、太くて固い腕ですねぇ」などと言い、小鉄さんの腕を触りまくったりしていた。小鉄さんは顔を赤くして照れていたっけ。

ある時、店にいたお客さんに「あれ?小鉄さんでは? 今日は何の集まりなんすか?」と声をかけられてしまった。

小鉄さんがとても気まずそうな顔をしたので、私がすかさず「あ、引退したプロレスラーの集まりなんです。私は女子プロレスの方で…」と答えたところ、すぐ話が済んだという出来事もあった。



そんな風にずっとクラスメイトでいた私達。

2010年7月初旬、春期授業終了後の懇親会の席で思い切って小鉄さんにお願いしてみた。

「先日のお話、とても心に残りました。あのようなお話を、私の勤め先で同僚に向けてしていただくことは可能ですか? 同僚たちに小鉄さんのお話を聞かせたいのです」。

ダメ元で口にしてみると、「いいですよ」と即答してくださったのだ。

具体的な日程などについては、後日連絡することとし、携帯番号もうかがった。

本当に電話していいのかな?と1ヶ月ばかり迷い、ようやく電話したのが8月中旬のこと。小鉄さんと直接お話し、1時間ほどの講演をお願いできれば・・・と切り出すと「その話、ちゃんと覚えていますよ。もちろん!」と快諾。

しかし、天下の小鉄さん。「あのぉ~、ギャラは…」と恐る恐る切り出すと、「そんなのいらないよ。田中さんの同僚でしょ? 10人くらいでしょ?」とおっしゃった。

「ええ、こじんまりと。でもそれでは申し訳ないので、終了後に皆でビールというのはいかがですか?」と提案すると、ビール好きの小鉄さんは「おっ、いいねぇ」と笑いながらおっしゃった。講演日を9月2日と決め、8月末に最終確認の電話をする約束をして切った。

社内では10人を超える出席表明。「伝説の鬼軍曹のお話を直に聴くことができるなんて!」「60代で大学に通う小鉄さんの向上心について是非拝聴したい」など皆で小鉄さんと会える日を楽しみに待っていた。

8月27日金曜日。
「あ、来週、小鉄さんに来社していただくんだ。週明けに最終確認のTELをし、約束より人数が多くなってしまったことをお伝えしておかねば」と思いつつ、帰途についた。



8月28日土曜日。私は母とショッピングをしていた。「来週、小鉄さんに会社で講演していただくんだ」なんて話をしていた。

その時、私の携帯にメールが届いた。妹からのものだった。「山本小鉄さん、ご逝去らしい。ニュースが流れている」とあった。

え?何?
どういうこと?

「お母さん、〝小鉄さん、逝去〟というメールが…」

私はその場に立ち尽くした。母も呆然としていた。大勢の声が交錯しているはずのショッピングモールなのに、何の音も聞こえなくなった。

明後日電話するはずだったんだけど。
木曜日には会社でお会いする予定だったんだけど。

帰宅後、クラスメイトの一人から電話がかかってきた。
「お嬢様から連絡を頂きました。通夜の日取りは…」と。



逢う約束をしていた人が突然目の前から消えてしまった。
小鉄さんがいなくなった。
7月、最後に逢った日の笑顔を思い出した。
8月、電話で交わしたやりとりと元気な声が耳によみがえる。

これは一体、どういうことなの?

驚き過ぎて、信じられなくて、色々な連絡は取りつつも、その日は涙も出なかった。

週が明けて月曜日、出社したら、同僚が次々と私のところに駆け寄ってきた。
「淳子さん、びっくりしたよ。こんなことがあるなんて…。大丈夫?」と口々に言われた。
その言葉を聞き、初めて涙が出てきた。じわじわと、じわじわと熱く涙が溢れ、机の上にぽとりと落ちた。

9月2日。小鉄さんに講演して頂く予定だった日がお通夜となった。教授と共に大勢のクラスメイトと弔問した。遺影はいつも通りの堂々とした小鉄さんだった。私達が机を並べて学んだ笑顔がそこにあった。翌9月3日は後楽園ホールで追悼試合が開かれた。

それからひと月余。10月、秋期の授業が始まった。教授は冒頭で「この講座を〝山本小鉄さん追悼講座〟としたい」とおっしゃり、ホワイトボードにそう書かれた。

みんなで黙祷を奉げた。



小鉄さん。逢えなくなったという連絡をまだ頂いていませんよ。
小鉄さんとの通話履歴は私のケイタイに今も残っていますよ。
上智大学で私の斜め後ろにある小鉄さんの指定席は今もそのままですよ。
毎週の授業の時、教室に入ると私はまず小鉄さんの席をきれいにふいています。なんとなくそうしたくて。

「いつか同じ講座を受ける」との約束を小鉄さんと交わしていたという奥様は今私たちと共に勉強なさっています。小鉄さんも毎週教室にいらして、ちょこんとお掛けになっているのかしら?

それぞれが小鉄さんと交わした言葉を胸に刻んでいるんですよ。
もっとたくさんお話を聞きたかったのに、とみんな淋しがっています。

小鉄さんとお逢いできて本当によかった。素敵な思い出をありがとうございました。

・・・

山本小鉄さん。また逢う日まで。

※ 現在、クラスメイトでもある山本小鉄さんの奥様に、この文章の掲載を快諾していただきましたことを、ここに感謝いたします。

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★「日経BPケイタイ朝イチメール」を電子書籍化した「コミュニケーションのびっくり箱」に追加コラムとして書いたものです。(初掲載:2010年12月)


【あれから4年】

2010年8月28日山本小鉄さんご逝去。
2010年9月3日の追悼試合の模様はコチラが詳しそうです。(今見ても、泣けてきます)

2011年9月。「小鉄さん1周忌追悼番組」に協力してほしい、ということで、クラスメイトが小林教授の研究室に集まり、ラジオ番組の収録が行われました。この音声は今ネットでは見られなく(聴かれなく)なっているようですが、番組の模様はかなり詳細に再現されているサイトがあります。(ラジオ番組1ラジオ番組2

↓番組内容をきちんと再現↓
学びを忘れない教育者・山本小鉄さんエピソード

上記で「女子会」の話をしているのは、私なのですが、これも心残りの一つです。

女性クラスメイトだけの呑み会を「女子会」と呼んでいて、小鉄さんに
「今度、女子会するんですけど、小鉄さんもいかがですか?」
とお誘いしたら、「いいねー」とおっしゃっていたのに、これも約束が果たせませんでした。

奥様は今でもクラスメイトで、お逢いする度に私たちはハグし合います。
「主人は、淳子さんと何か約束をしていたのでしょう?ごめんなさいね」なんて言われ、涙出てきてしまいます。

・・・・

やはり、今でもとても逢いたい。

【絶版かも知れませんが、とてもよい本なのでお読みください】



【こちらは今でも入手可能で、小鉄さんが話してくださったことが全部詰まっている】

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