愛する人の看取り。 ~一番大切なことは何かを考える~
友人の立花岳志さんのおばあちゃまがなくなった。その時のことをブログに書かれていて、それが「とても大切なこと」を考えるきっかけを与えてくれるものだったので、ここでも紹介したい。
おばあちゃまは100歳。年末にも一度大変な状況に陥った様子だったのだけれど、元気になり、お元気になった笑顔のお写真などもネット越しに拝見していた。
先日倒れ、重篤な病気が判明し、「余命48時間」と宣告されたという。
病院は、「病気を治す」が使命。そうなると、治療の阻害要因となりそうなことは極力排除しようとする。そういうシステムで動く場所だからだ。
おばあちゃまがお水を飲みたいとおっしゃった時も、治療に差し障りがあるからNGと一旦は言われる。
そこで立花さんは奥様と話し合い、「なんか変じゃないか」と気づく。
残された時間が48時間しかないのに、なぜ、そこで「我慢」を強いられるのか、と。なんのための「我慢」なのか。
「治るための我慢」ならわかる。
残り少ない時間で、なぜ我慢を?
それよりも、したいこと、望むことを叶えてあげることが家族のできることではないのか。すべきことではないのか。
そう気づき、医療従事者に水を飲ませることの承諾を得る。
おばあちゃまはとても喜んだそうだ。
そして、楽しい思い出話をたくさん聞かせる。歌も歌う。
たくさんの「楽しい、幸せなとき」でお部屋を満たして、おばあちゃまを包んでいく。
なんと幸せな旅立ちだろう。
どのような状態であっても、最後まで耳だけは聞こえているとはよく言われることだ。
だから、旅立とうとしている人の前でネガティブなことを言ってはいけないとも言われる。
楽しい思い出、幸せな思い出を語り続け、おばあちゃまもそれを思い出しながら、家族と共に過ごす。そして、大切な「ありがとう」「愛しているよ」をきちんと伝える。
旅立つ人を愛で包むことは、のこされる者にとってもまた愛で包まれる行為だろうと思う。
私は2年前から上智大学で「グリーフケア(悲嘆ケア)」を学んでいるのだが、旅立つ人も見送る人も共に「癒される」ことが大事だということを様々な授業から感じていた。
「言わなくても伝わる」のではなく、「伝えたいことは言葉にして伝える」こと。
最後に楽しく美しく幸せな思い出に包まれるように皆でたくさんの話をすること。
そのために、ときに病院システムとも話し合うこと。
看取りの時において、一番大切なことは何か。
それを教えていただいた。
私も13年前、愛する祖母を99歳11か月で亡くした。実家で8年ほど手厚い介護をして、蝋燭の火がふっと消えるようにある日そーっと旅立った。
喪失感は大きかったけれど、そして、今でも会いたいし、話をしたいと思うけれど、それでも、看取りについては、家族全員が「せいいっぱいやった」と今でも悔いはない。
たくさんの笑顔を見たし、たくさんの笑い話をしたし、祖母の晩年は幸せだったと信じている。
立花さんのおばあちゃまへの想いを読み、祖母のことを思い出した。
立花さん、おばあちゃまのご冥福をお祈りします。