「いただきます」は、仕組みを支えるすべての人への「感謝」の辞でもあるのではないだろうか。
本当の話なのか都市伝説なのかは存じませんが、以前まことしやかに世の中に流れていた「話」として、「給食費を払っているのに、なぜいただきますを言わなければならないのか。お金払っているじゃないか。だからうちの子には、いただきますを言わせません」と言ったとか。
それに対する反論で、
「いただきます、は、給食を作ってくれるおじさん、おばさんに対する感謝なだけではなく、動物や植物の”いのち”をいただくという感謝を表す言葉なのである」
というものもよく見聞きしました。
「他者のいのちをいただいて、そのいただいたいのちに感謝し、祈りをささげ、だから、”いただきます”とあいさつをするのだ。決して、お金払ったから不要とかお金払えば感謝しなくてよい、というレベルの話ではないのだ」というわけですね。
なんかこう道徳的過ぎて、この反論が今一つ腑に落ちないというか、納得できないままもう10年くらい経ったでしょうか。
で、最近、ふと思いついたことがあるのです。
もし、「お金払っているのに、なぜ”いただきます”を言う必要があるんだ」と本気で思っている親がいたとして、子どもに「お金払っているんだから、食べる権利あるし、サービスを受ける権利あるし、そこに、いただきます、や、ごちそうさま、や、ありがとう、なんて感謝の辞を述べる必要は1mmたりともないよ」と本気で思っているとしたら、それは、ずいぶん、のんきなことだなあ、と。
つまりですね。
「給食費を払いさえすれば、給食が食べられるようになっている仕組み」って、すごいことではないですか? どれほどの人がその仕組みを支えているか、って数えきれない人間が関わっていますよね。その間に悪意に満ちた人が一人もいないのですよ。食べ物を運ぶんですから。
生産農家、畜産業、漁業、林業・・加工・・・流通・・・冷凍・冷蔵・・・調理・衛生・・・その他もろもろの仕組み、流れの中で、子どもの給食が学校の机の上に並ぶって、すごいことなんですよ。毒が混入することもないし、腐ってしまうこともないわけです。大勢の善意と労働に支えられて口に入る。
社会の仕組みって、大勢で支えているからこそ成り立っていて、誰もが、懸命に自分の職務を果たすから動いていくわけなんですよね。もし仕組みが壊れていたら、善意ではなく、悪意の人が多かったら、パン一つ届かないか、そのパンを食べたら、おなか壊すかも知れないのです。
ああ、そう考えたら、もう「給食をきちんと食べられること」って、ものすごくありがたいことです。感謝すべきことです。
「お金を払うだけで、暖かいシチューやパンを子供たちに食べさせてくれる仕組みを支えているあらゆる人に感謝」すべきことなんですよねー。
生きている牛さんの命をいただいた、ということは確かにあるけど、大勢がきちんと働くからこそ成り立つ仕組みの最後の部分に「お金払って食べる」という行為がある。
もし何かあったら、お金なんか無価値になることもあるわけだし、給食なんてなくなっちゃうわけだし、その奇跡的な仕組みは、当たり前なんかじゃないんですね。
だから、「多くの方にありがとう。いただきます」なんですよねー。
・・・・日本にいると特にそうだと思うのですが、いろいろなものが「きちんとしていて当たり前」に思えます。
その「当たり前」は、みんながみんな頑張っているからこそ保たれているってこと、忘れちゃいけないと思うんです。
自分の生活をどれほど大勢が支えてくれているのか。会ったことない大勢の人の労働の結果、今、自分が生きている。もちろん、自分も会ったことない大勢の人の生活をまた支えている。
社会って、そーゆうことなんですよね。
いただきますは、大勢の大勢の自分を助けてくれている人に対するお礼なんだと思ったのです。(もちろん、牛さん、豚さん、さかなさん・・・にも感謝ですが)
・・・・・・土曜日の朝のぶつぶつ、でした。 (書いているのは、金曜のオフィスです。自宅のPCはネットつながりませんので・・・汗)