痛い目に合うと学習する」とは言うものの、「痛い目」経験が減ってきているのではないだろうか?
昨日(8/29)、初めてトンボが飛んでいるのを見かけ、おお、秋はもうすぐそこなのだなあ、と気づきました。とはいえ、まだまだ、日中は暑いですけれども。
夏といえば、痛い目にあった出来事を毎年思い出します。(たぶん、この話は過去にブログで紹介した気がしますが)
4年前のこと。サンダル(つっかけではなく、女性用のストラップがちゃんとあるサンダルです)を履いた私は、自宅マンションのエレベータに乗っている最中、ストラップを外してしまい、すたすたと自宅に向かって歩き始めました。その数歩目の時、右足に激痛が走った、と思ったら、ストラップの先についている金具を右足親指で踏み込んでいて、・・・・(ここから痛い話が続きますので、気が弱い方は数行飛ばしてくださいませ)
見れば、金具が右足親指の爪の間にすぱーっと入ってしまっているのでした。ま、要するに、爪がはがれた状態ですね。すぐ取り外し、激痛と戦いつつ家に入り、床に座り込んで観察すると、じさじさと新鮮な血が・・・・。「あ、やってしまった」・・・。
こういう時、どの病院に行ったらいいか迷ったのですが、近所の内科小児科にTELしたら、「ま、いらっしゃい」と。
看護師さんが「あらー、まずは、消毒ね。消毒のために爪を持ち上げるけど、痛いわよ。覚悟してね」と爪をぐいーっと持ち上げて中まで消毒を。
怪我した瞬間よりも、この治療の痛いこと、痛いこと。 思わず、「う゛っ」とうなり、涙がどどーっと。痛いぞ、これ。
その爪は元に戻され、包帯でぐるぐる巻きにされ、あとは再生を待つだけとなりました。翌日からサンダル(今度は運動するときのような、というか、おじさんがよく履いているようなというか)を履いて出勤。包帯の範囲が少し小さくなってからは研修の仕事も、もう少しましなサンダルで。
・・・ ストラップを外してサンダルを履くって危険です。 慌てていても、急いでいても玄関に入ってからゆっくり靴は脱ぎませう。
というわけで、だらしなくサンダルを履くと親指の爪がはがれる大事故!につながることがある、というのは身を持って知ったわけです。こういうことをするといけない、こんなことはダメだ、した結果、こんな痛い目が待っている、 全治はこのくらい、などなど。あとは、満員電車で席を譲ってくれる方が見た目はギャル風メイクの若い女性で、驚いた!なんて経験もしました。
やはり、経験することから学ぶことはたくさんある。
だから、失敗とか痛い目というのは、人の学びには重要な要素の一つなのだけれども、最近、「若手に失敗させられないんですよね」と言う声は増えてきているのです。
これも、このブログでもすでに何度か書いたと思いますが、
○「失敗させたいけれど、失敗からリカバーするまでの部分がコストになるから、失敗させるな、と上司に言われてしまう。コスト削減だ!と言われるので、失敗経験をさせられない」
○「失敗させようと思ってあえて放置し(というか見守っ)ていたけれど、周囲の先輩たちが「それは危険だ」「かわいそうだ」と思うのか、事前に手を差し伸べてしまうんですよね。リスクを負いたくないのかも知れないけれど」
「痛い目」、出きれば合わないほうがいい、合いたくない、と人は思う。でも、「痛い目」を経なければわからないこともある。一皮むける経験なんて、たいていは、「大成功の経験」よりも「痛い目経験」「ひどい目にあった経験」「やっちゃったー(汗)経験」で構成されるのではないだろうか。
とはいえ、今は、若手一人の失敗が広範囲に影響を及ぼす時代。「失敗経験」「痛い目経験」をなかなかさせられないという、指導者側の気持ちや不安もわかります。
若手に「痛い目」に合う経験をさせるのは、20年前よりもうんと難しくなってきているように思います。 今のように「コンプライアンス」だとか「CSR」だとか言うようになってくると、どこでどういう「失敗」をさせるか、というのは、よくよく考えられた方法にしないと、危険もいっぱいなのでしょう。人が育ちにくい、と言われるのは、こんなところにも一因があるように思います。
「失敗経験」は、単なる偶然の産物もあるでしょうが、「どんな失敗をさせるか」をよくよく考えて、「経験をデザインする」のも「人の育成」を考えた場合、重要だとは思うのですよね。どんな風に「経験をデザイン」するか。 各現場が抱える課題だと思っています。