今回のオリンピックはお涙頂戴物語を声高に添えていないような気がするので安心して観ていられる
何年か前のオリンピックがピークだったようにも、今にして思うのは、「お涙頂戴」を添えること。
「亡くなったお母さんも見ています」とか「闘病中のお父さんの想いを背負い」とか「おばあちゃん子だった○○は、これで天国のおばあちゃんにメダルをプレゼントできましたね」とか・・・。
なんかよくわかりませんが、アスリート個人の努力とか周囲のスタッフの支援より、「家族」をクローズアップ。しかも、「泣ける」方の物語を添えて、何かを煽る手法。
かなり辟易していました。
会社員だって、いっぱい物語を背中でしょっているわけだけれど、それ、別に言わないわけで。
「闘病中のお母さんの想いを背負い、今日は渾身のプレゼンテーションを!」とか
「この受注で、天国のおばあちゃんにいい報告ができますね」とか。
アスリートもそこばかり言われるのは本意でないような気がするんです。
(いや、そうじゃない人ももちろんいるだろうけど)
オリンピックだけじゃなくて、駅伝でも高校野球でも「家族物語」がアナウンサーの口から次々繰り出されますよね。
「変なキャラのお父さんがいます」「おもしろ母さんです」という方向にはあまり進まない。
スポーツだけがなぜ「お涙家族物語」を添えられてしまうのだろう?
それは、やはり、「スポ根」という言葉にも象徴されているように、「根性」→「忍耐」→「家族も含めて我慢、忍耐、艱難辛苦」・・というイメージがあるから、なのかな。
根っこは、「巨人の星」とか「アタックNo.1」あたりにありそう・・・な。
んで、話を元に戻すと、今年はそういう表現をあまり耳にしないので、いいなあぁ、と思っています。 といっても、相変わらず、熱心には見ていないので、ちゃんとウォッチしていたら、喧伝されているかも、ですけれど。
「お涙物語」では、黙るしかない。何も言えない。 見ている人間を寡黙にさせる力がある。
どうせ家族物語を添えるなら、ぜひ、「爆笑物語」のほうにしてほしい。そうしたら、「へぇ、こんなお父さんの元で、よくこれほどストイックな選手が育ったなぁ、おもろい」と、かえって何かを学べるような気がします。
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そういえば、ほんの数日前のことですが、帰途、路上で突然思い出したのは、
「ジュン・サンダースは骨肉腫だったと思うが、子どものころ、あれが怖くて怖くて仕方なかった。 どうしよう? 私も骨肉腫になって大人になれないまま死んでしまったら、と考えたら、ちょっと腕が痛くても、骨肉腫かも知れない、とおびえていたなぁ・・・」
ということでした。
ほんとにあれは怖かった。歳をとると、やたらと古いことを突然思い出しますなぁ。40年も前のことなのに。(って、昭和な方にしかわからないことをつぶやいて、今日は〆てみます)
今日はいよいよ女子マラソンですね。 皆様、よい日曜日を♪
【オリンピックつながりで】
この奥田英朗さんの小説は、松本清張かと思うほどのスリリングなサスペンス。東京オリンピックの時代の日本は、こういう感じだったのだろうなぁ、と、自分が生まれたころの「にっぽん」、高度経済成長期の「ニッポン」を垣間見ることができる一冊。わくわくしたい方に超おススメ!