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人材育成の現場で見聞きしたあれやこれやを徒然なるままに。

8月15日、終戦記念日。おじに聞いた戦争の話。

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今日は終戦記念日ですね。第二次世界大戦の、です。8月15日。

いくら昭和の田中でも、もちろん戦後生まれ。両親は、終戦時に14歳と6歳だったはず。父は佃の育ちなので、東京大空襲は中学生の時に経験していたようですが、それほど怖い思いをしなかったのか、あるいは、話したくないのか、これまでにほとんど聞いたことはありません。 母に至ってはまだ幼児だったのと、京都の丹後半島という田舎も田舎にいたので、より一層戦争の記憶はあまりない様子。

しかし、母と17歳離れている長兄は召集され、大陸に渡っていて、終戦後1年かそこらで「がりがりになって」復員したということは祖母からもおじからも母からも聴いています。

20代の若者が学業もそこそこに戦地に駆り出されたものの、大陸で病気になってしまい、ほとんど療養生活だったようですが、病気や怪我の兵隊はたとえば、病院にて治療を受ける際、戦地ですから物資(医薬関係も食糧も何もかも)が不足していて、患者に格付けをせざるを得ない。その時、旧帝大を出ていたおじは、優遇されて、たとえば、薄い布きれと毛布があったら毛布をあてがわれた、というようなことがあったそうです。

ほかにもあれこれ「何等かの差別」をしないと、あらゆる資源の分配がうまくできないので、その都度、ぎりぎりでおじは助けられることになった、と。だから、命からがら帰国できたのです。

おじは、この時ほど親に感謝したことはなかったと言います。「さほど裕福な家でもないのに、この田舎から帝大に行かせてもらえたことで、結局、何度も何度もこの学歴によって助けられた」と。極限状態の戦地に置いて、だれかを選ばねばならない時、階級や学歴という基準を設けるしかないのでしょう。おじが帝大出身だったことがおじの命を助けることになったのです。


帰国した時、体重が38キロとかなんか170センチくらいはあるであろう男性の体重とは思えないような痩せ細った身体で、両親(私からすれば祖父母)が号泣したといった話も聞きました。

そのおじは90歳。戦争を戦地で経験し、体もぼろぼろになって戻ってきた人が、その後、会社を定年まで勤め上げ、さらに90歳までまだまだ元気だということは、本当によかった、いや、陳腐な言葉ですが、苦しかった分、その後の人生で取り返してください、と、戦争を経験していない身ながら、そう思います。おじは勉強熱心で、何でも好奇心を持って自分で調べ上げるのです。私が過去出版した本3冊も全部読んでくれて、封書で感想と「たぶん、ここ間違いじゃないか」という指摘をしてくれたりもします。

上記の戦争の話は、10年前に99歳11か月でなくなった祖母の法事(3回忌か7回忌か)で、大勢が集まった数日後の夜、たまたまおじと二人っきりになった時、聞いたものです。

戦争のことを生々しく語れる人がどんどん減ってきている今、直接聞くことのできる機会は進んで作っておかねばと思い、質問してみたのです。

ここに書いた以上の話をたくさんたくさん何時間かかけて聞いたのですが、やはり、当たり前だけど、「戦争はいけない」と思ったし、今のこの平和は大切にしなければならないと強く思いました。「平和」が長く続いているため、当たり前になってしまっているけれど、みんなでこの状態を守っていくことが大事なんですよねぇ。

お盆で帰省されている方も多いと思いますが、戦争を語れる世代が近くにいたら、子供たちも含めて話を聞く機会を作ってみてはいかがでしょう。

====追記=====

正式には、

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」(昭和57年4月13日の閣議決定)と言うようですね。

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