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人材育成の現場で見聞きしたあれやこれやを徒然なるままに。

グリーフケア講座(3) 悲しみ―心が裂けると言う視点から―

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上智大学グリーフケア講座3回目のレポートです。(2回目は、出張で参加できませんでした)
*1回目は、コチラ

講師は、 森一弘氏(カトリック司教 真正会館理事長)。 すごーくすごーく穏やかに囁くようにお話しなさるので、途中、目が閉じそうになったこともありましたが、ちゃんと全部聴きました。はい。

「悲しみ」の「悲」という字。「非」は「翼が左右に開いた様」を表わす。「悲」は、だから、「心」が「左右に避けてしまう」状態を指すのだ、という解説がありました。なるほど。

3回目の講座をサマリすると、こんな内容だったと私は理解しました。

『人は、命与えられている限り、求めているものといえば、”生”が輝くことだ。充実とか幸せといってもよい。本能として”幸せへの夢、願望”を持っている。それが人の生きる原動力にもなっている。昨日よりも今日、今日よりも明日、よりよくなる人生を夢見る。 災害や事故というのは、まったく逆の状態を人間にもたらす。ある日突然夢が打ち砕かれる。とても残酷である。

本当は、夢が打ち砕かれることもまた人生の一部。夢・希望だけで人生が構成されているわけではない。 でも、それは考えずに生きている。

今、たとえば、高い高い防波堤を作るとか耐震構造のビルを建てるとか色んな知恵を皆が出しているけれど、それは、全て、「モノ」の「防災」について検討し、準備しているのであって、心の部分については全く教育されていない。 災害がやってきた時、心が打ち砕かれることに対する、振る舞い方、処し方に対する教育は一切なされていない。そういう状態には準備していない。

・・・

私たちは、自分の人生が幸せなものになるように様々なことをしている。そんな時、何らかの理由で望みが絶たれた時、「私」はだんだんと動けなくなり、「苦しく」なる。自分の力では解決できない大きなもので「私」が閉じ込められる。 「苦しい」というのは、「心の動きが止まる、止められる状態」を指す。硬くなってしまう、というのが「古」の意味。

どうすれば、絶望の中でも希望を見出して行かれるのか。

『夜と霧』の中でフランクルは、「まっとうに苦しむことはそれだけで何か大きなことを十分に成し遂げている」と述べている。あの苦しみの中ですら、そういう言葉を残している。

人生には苦しいことも美しいこともある。どちらに目を向けるかで、自分の生き方が変わってくるのではないか。

愛する人を失う。自分の中に入ってきていた愛する人が自分を生かしてくれている。「この人のために生きている」と思うような相手、自分の生きる原動力を災害や事故は奪う。だから、生きる「いみ」を失ってしまうことがある。

苦しみも悲しみも人生の一部。 私たちは、命の営みを受け継いで生きている。 人は一人では生きていない。 いろいろな人々の命の営みの中で生かされている。 だから、その「いのちのいとなみ」「いのちのながれ」を自分は汲み取って生きていくしかないのではないか。』

・・・

レジュメはほんの5-6行程度の箇条書きで、あとは、先生がおっしゃった一言ひとことをメモっていました。上記『』内は、私のメモです。

文脈が読み取れないかも知れませんが、私が特に印象に残ったは、次の点です。

●建物などの防災対策や防災意識については教育がなされているのに、悲しみ・苦しみといった心についての教育はなされていない
●明日はよりよくなる、という夢や希望が生きる原動力になっているのであって、悲しみ・苦しみをそう予想していない
●人生は、美しいこと、夢のような面と苦しみ、悲しさといった面の両方がある。苦しい時、どちらに目を向けようとするかで変わってくるんじゃないか
●人の命の営みの流れのなかで一人ひとりは生きている。その流れを感じることが大切

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10年前に99歳11か月で亡くなった祖母は、実家で8年近く介護していたこともあって、他の祖父母と比べても、濃い関わりがありました。その祖母とは、今でも心の中で対話します。

いや、対話というか、一方的に私が話しかける感じです。 何か返事があるわけではないのだけれど。 それは、きっと「人の命の営みの流れの中で」ということなんだろうなあ、と私なりに理解しました。

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