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人材育成の現場で見聞きしたあれやこれやを徒然なるままに。

職業観はどのように育まれるものなのだろう?

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ダイヤモンドオンラインに「高学歴かつトライリンガルなのに仕事はできない!? なぜ国立大大学院生ゆとりちゃんは働きたくないのか」という記事が掲載されていました。

仕事向いてないみたいぃ~、といって、就職することを避けている女性が登場します。とても成績優秀なのに、という話のようです。これが実話なのか創作なのかはおいといて、仕事って「苦役」だけ見えるとしたら、仕事の半分も見えていないのではないかしら? もったいないことだなあ、と思いました。

少しアルバイトして、ちょっと叱られて、だから向いていないみたい、という体験にも触れられていますが、じっくり腰を据えて取り組んでみたら、苦労した先に嬉しさ、醍醐味みたいなものが見えることもあるでしょうに。なんというか、やる前から「達観している」様子が見て取れます。

この記事を読んでふと思い出したのは、子どもの職業観は親にとても影響を受けるという話です。

いつだったかTwitterで流れてきた話なので、どなたの言葉なのかもわからないのですが、とても強く心に残りました。それは、こんな内容でした。

「親が帰宅したとき、”ああ、疲れた”とか”もうやってらんないよ”などとネガティブなことを言うと、それを聞いている子どもは、”仕事というのは疲れるし、やってらんないと思うような、全然ステキなものではないのだ”という風に刷り込まれる。仕事に関する親の職業観は、子どものそれにとても影響するものなので、気を付けないといけないんだよ」

なるほど、なるほど。

確かに、それはあるかも。子どもが最初に接する「働く大人」は、間違いなく親で、その親が「仕事」をどうとらえているか、というのは、子どもに伝染しないとは言えないでしょう。

思い出してみると、わが父は、食卓でよく仕事の話をしていましたが、もちろん、今思うと、ネガティブな話題(やってられない、とか、誰がどうした、といった種類の)は口にしていませんでした。

仕事場に行けば、嫌なこと、腹の立つことのひとつやふたつあったに違いないということは自分も働くようになってからようやくわかったことで、父がそういうネガティブな話題を食卓で持ち出したという記憶はついぞありません。(食卓でだけでなく、リビングでも。子どもの前ではいつも)。 多少「今日は参ったよ」という口調の話はあったようにも思うものの、苦々しい、毒々しい会話はこと仕事に関してはしませんでした。

これがもしかすると私の職業観にも多少は影響しているかもしれません。就職する時点から、「会社」「仕事」「上司」「同僚」というものに、「嫌なことがあるかも知れない」という種類の構えも持たずに済んだのはこういう家庭での会話があったからかも。だとしたら親にも感謝です。

上記リンクの記事にある女性の仕事観がどうやって培われたのかは不明ですけれど、親に限らず、何かの影響を受けてはいるのだろうとは思います。

そういえば、以前読んだ本(「最近の若者」ついて書いた本でした)で、「イマドキの若者は、若いころから子供のころからネットが当たり前の社会にいるので、いろんなことを体験する前に目や耳で情報として得てしまう。だから、様々なことにデジャヴュ観を持ち、行動する前に判断を下すことがあるようだ」と書いてありました。たとえば、「東京はこういうところだとネットで見聞きしたから、別に行ってみなくてもよい」と思うなどの例も挙げられていました。職業観もそういうデジャビュ観に由来する側面もあるのかも知れませんね。

*訂正*
出典はダイヤモンドオンラインです。お詫びして訂正します。

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