「それはそれ。これもそれ」の自問自答
研修を担当していると、オモシロいなぁ、と思うことがあります。
たとえば、新入社員の育成指導にあたる、いわゆる「OJTトレーナー」の方向けのワークショップ。
「新入社員には、自分で考え、自分で動き、主体性のある、積極的な人になってほしい」ということを皆さん口々におっしゃっています。
グループワークが終わって、「では、この部分、どなたか発表していただけますか?」と全体に声をかけると、しーんとしてしまう。「この会話を再現してみていただきたいのですが、どなたかお二人前に出てきていただけませんか?」と誘っても、全員がそっと目をそらす。
『あれぇ~、主体性のある、積極的な人になってほしい、とさっき、言っていたじゃないですか?』と思うので、それをそのまま声に出して指摘すると、「にやにやー」っと皆さん笑うばかり。
「それはそれ、これはこれ」という反応です。
リーダー向けの研修でもそうです。
「ここからの1時間のグループワークは、まずリーダー役を決めてから進行してください」と言うと、全員で目配せし、最後に「じゃあ、ジャンケンで」となり、さらに「負けた人が・・」なんて聞こえてきます。
こういう時も、「リーダー研修なのですから、”私がやります”と手を挙げるか、ジャンケンするならせめて”勝った人”にしてくださいね」とアドバイスするのですが、ここでもやはり、「それはそれ、これはこれ」なんですね。
他にも、たとえば。
「最近の若手は考えなくても困る。考える力が弱っている」と散々愚知っている管理職に、「11時までに仕上げてください」とある課題(ブレーンストーミングするタイプのもの)を出した時、「アイディアは20個以上出してくださいね」と言い添えるものの、「9個くらい」で打ち止めとなり、「もう思いつきません」と言われることもあります。
「えー、他にもありますよ。よく考えてみましょう」と促しても、「答えの例を見せてください」と言われることも。
ここでも「それはそれ、これはこれ」。
「研修だからそうなるのであって、実務は違う」のかも知れません。
それはそうかも知れないけれど、「主体性を持ってほしい」「積極的に」「自分で考えてもらいたい」と部下や後輩に言う時に、自分は果たしてそうしているだろうか、という自問自答は欠かせないと思うのです。
人は、自分のことは、案外わからないものです。しかも、自分の行動や判断には、かならず「理由」をつけることができます。だから、どうしても甘くなりがち。
以前、こんな解説を心理学の本で読んだことがあります。
「人は、他人の言動については、性格に依拠するととらえやすい。一方、自分の言動には、かならず外的要因に依拠し、仕方ないと評価しやすい」
たとえば、
誰かが遅刻した時、「ああ、あの人は、時間にルーズだからね」とか「遅刻魔だもんね」とその人の”性格”を持ち出して解釈しやすい。
でも、自分が遅刻した時は、「今日は山手線が遅れていたから」とか「家を出るのがちょっと遅かったから(←理由?)」などと”外的要因”を持ち出しやすい、というのです。
ずーっと前のこと。
あるシニアな男性が、「最近の若者は親のすねをかじり過ぎだ。30歳過ぎても親がかりだったりして。親も親だ。もっと娘、息子を突き放さなければ、一人前にならないっ!」と常々世の中に苦言を呈していました。
その方のお子さんが結婚することになり、結婚と当時にマンションを購入することになったという話を聞きました。
すると、「頭金として1000万を出してやることになった」と言うのです。
「あれぇ~!!!??? 親が甘すぎる、子供が親のすねをかじり過ぎる、と言っていたではないですか!(笑)」と突っ込むと、こういう返事が。
「だって、先方の親が出すというのに、うちだけ出さないわけにもいかないでしょう」と。
これも、自分の言動には「理由」がつけられる、という例ですね。
ま、そんなわけで、研修でも「部下には”考えろ”というし、”考えなくて困る”ともいうけれど、自分が”考えられない””考えがあまり深まらない”のは、研修だから」と思ってしまうのは、理解できなくもないのです。
ただ、もし、日常で「それはそれ、これはこれ」と思っているな、と自覚できたら、「それはそれ、これもそれ」と言い換えてみてはどうかしら?とも思います。
自分の客観視はとても難しい。私も自分自身に対して、いつもそう思います。
そんな時、「それはそれ、これはこれ」と思っていないかなあー、「それはそれ、これもそれ」で考えなくては、と言い聞かせるのであります。