そのムードを作っている人に自分も含まれている
「部下を育てる」「若手の成長を支援する」という場合、最近は、「OJT」を制度化する動きが盛んである、という話をすでに書きました。
ただ、「OJT」の担当者をアサインしたらそれで終わりというわけではなく、この担当者はあくまでも「第一窓口」といった位置づけで、周囲の先輩たち、あるいは上司(たち)が育成に関わらなくていいか、といったらそんなことはもちろんありません。
OJTがうまくいくかどうかは、いかに周囲が育成に関与するかにかかっています。
つまり、「組織をあげて、よってたかって育てる」ムードがあることが大切なのです。
放っておいても、そういうムードが最初からある組織もあります。が、長らく新入社員が入ってこなかった、とか、上司が育成に関心がない、とか、いろんな理由で「みんなで育てるというムード」があまりない組織もあります。
そんな時、よく人はこう口にします。
「育てるの、大切だよなあ。だけど、”全員で育てるムード”がうちにはないからなあ」
「”みんなで育てよう”というムードがないから、ムズカシイよなあ」
確かに、それはそうなんですが、こういう言葉の中に、なんとなく「そのムードを作っている人たち」VS.「自分」というニュアンスが感じることに少しだけ違和感が。
そういうムードを作っている人の外に自分がいるのではなく、実は、案外、そのムードを作る人の中に自分がいるんじゃないだろうか?と。
若手の育成を例にしましたが、他にも似たようなことはたくさんあります。
たとえば、
「うちって、会議が長引くし、だらだら話して、結論が出ないんだよな」
「強いリーダーシップを発揮する人がいないから、みんながなんとなくバラバラなんだよねぇ」
なんてのも同じことではないかしら。
自分が出ている会議がとてもだらだらしていると気づいているなら是正するなり、是正の提言をしてもいいはずだけれど、だらだら会議を甘んじて受け入れている自分。
リーダーシップを発揮する人がいないんだよね、ってことは、「発揮してない人」の中に、自分も含まれているでしょう?と思ったり。
つい、「うちにもそういうムードがあれば」「うちもそういう組織風土だったら」と”評論家”のように言ってしまうけれど、その集合の中に自分も含まれている、と捉えたほうが、自分がすべきことを、自分がどう動けばよいかを真剣に考えられるのではないだろうか、と思うのです。
20代ならともかく、30代以上であれば、「うちのムードが」と言っている場合じゃないかも。ましてや40代なら。
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いやはや、これは、完全に「自戒を込めて」というか、我と我が身に言い聞かせて、というエントリーでした。