「正しさ」のあいだで争わず「よりよく」できたらいいのにね
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こんにちは、しごとのみらいの竹内義晴です。
「ネット上で『不謹慎狩り』が起こっている」という、いくつかの記事を目にした。
- 芸能人が寄付額を写真をアップすると「偽善」
- いいこと(なにが「いいこと」かはさておき)を投稿すると「いいひとぶってる」
- 笑顔の写真をアップすると不謹慎
などなど。
ひとは誰しも、何かを見聞きしたときに、それを、「よい/わるい」「正しい/正しくない」のように判断する。そして、「わるい」「正しくない」の方に思考の振り子がふれたときにネガティブな感情が沸いてきて、ほぼ反射的にネットに書き込んでしまう。
思考がどっちに振れるにしろ、そう「思う」こと自体は悪いことではないし、誰しもが「それは違うだろう」と思ったことがあると思う。
だけど、あのひとが書き込んだそれは、本当に「正しくない」のだろうか。そして、じぶんの意見は本当に「正しい」のだろうか。もちろん、じぶんの中では正しいのだろうけど、その判断は置かれた状況によって、変わってくるのではないか。
それならば、反射的にネットに書き込む前に、「なんで、あのひとはああしたんだろう?」と、あのひとの裏側にある「背景」を、「あれかな?これかな?」と考えてみるのはどうだろう?また、じぶんに対しても「なんで、わたしは『不謹慎だ』と思ったんだろう?」「なぜ、私は○○を正しいと思っているのだろう?」と、じぶんがそう思った「背景」を考えてみてもいいのかも。そうすれば、「こころの余裕」が生まれる。
正しさは、相手がどうの......というよりも、じぶんのなかにある正しさだ。でも、その「正しさのぶつけ合い」が、お互いを傷つける。
そもそも......あのひとも、そして、じぶんも、本当はみんな「困っている人たちのために」「よかれとおもって」やっているだけなんよね。それなら、「正しさ」のあいだで争わずに、「よりよく」できたらいいのにね。
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