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これって、ちょっとマズいかも?―ネット社会で自分が死んだときのことを考えたら、ちょっと悲しくなりました

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こんにちは、竹内義晴です。

テレビをつけて、何気なくチャンネルを切り替えていたら、ある2時間ドラマに目が留まりました。

学生が不慮の事故で命を落とす。その原因を探る女性刑事。学生の家を捜索すると過去の日記を発見し、ページをゆっくりとひらくと、そこには、これまでの壮絶な体験が記されていて、それを知った母親は「今まで気が付かなくてごめんね」と泣き崩れる・・・みたいな、よくある2時間ドラマです。

なんとなく気になったので、しばらくそのシーンを見ていたら、ふと

「もし、ボクが死んだら、家族はボクのこれまでの気持ちや考え、生き様に触れることができるのだろうか?」

と、思いました。

ボクがこの世を離れたとき、考えや行動の記録を手帳に書いていれば、それを見つけた家族は手帳を開くでしょう。「こんなことを考えていたのか」とか「あのとき、苦しんでいたんだな」とか、「意外と、楽しそうでよかった」などなど、テレビドラマのように、私の本心や生き様を知って、泣いてくれるかもしれません。

肉体から離れた私は、天井付近から、家族がむせび泣くさまを見て、「そう、普段はあまり言えなかったけれど、ボクはキミたちを愛していたんだよ。今までとても楽しかった。これからも空から見守っているからね。いままで、どうもありがとう。」・・・とでも言って、涙を流しながらも笑顔でスッと消える(もう姿はないけど)のが、理想の逝き方です(笑)。

でも、最近のボクは、アナログの媒体に自分の気持ちを書き記していません。以前は、何年も使ってお気に入りのFilofax(システム手帳)にスケジュールやメモを書いていたけれど、最近のスケジュール管理はGoogleカレンダーだし、自分の考えはブログやFacebookに書くことが多いし。スマートフォンに変えてからは特にそう。

となると、もしボクが死んだとき、家族はブログやFacebookの記事は読むことができるでしょうけど、カレンダーはまず、見れないな。あと、見れるのは、どうせ誰が見るわけじゃないからと、仕事のアイデアを汚い字で書き記した、Campusノートぐらい。

あれ?これって少しまずくないか。ひょっとしたら、ボクは、理想の逝き方ができないんじゃないか?

もし、今ボクが死んだら、きっとこんな感じになると思います。

親:「お父さんって、どんな仕事していたか知ってる?」
嫁;「う~ん、なんとなく分かるけど、詳しくは知らないな~」
娘:「そうだ、パパはよくパソコンいじってたよ」
嫁:「あっ、そういえばブログは書いていたんじゃないかな。検索してみる?」
嫁:「(竹内義晴と検索キーワードを入れてクリック)」
嫁:「ちょっと、何これ!?」
娘:「パパって・・・」
親:「親の知らないところでこんなことを・・・」

(以下、略)

こんなシーンになることが容易に想像できます。家族がモニタの前に集まっているシーンは、なんか、味気ない。理想とは、ずいぶん違う感じがする・・・。これ、ちょっとマズイんじゃない?検索でヒットしてくれればいいけれど、探せなければ、家族に触れる機会すらなく、そのまま広大なネットの世界の中で、漂うことになってしまうかもしれません。

だからといって、今から手帳に戻るのも大変です。スマートフォンでパッとスケジュールを確認するのは便利だし、PCで文章を書くのも便利なのです。

でも・・・逝くときは、家族にむせび泣いて欲しい。そして、本当の気持ちを知って、笑顔で送って欲しい。その様を、天井から見ていたい。

仕方がない。日記をゆっくりめくるシーンを、モニタとマウスに変えることにしよう。それは、譲ろう。でも、検索キーワードを入れたときに、「なにこれ!」「これはひどいんじゃない」「お父さんってこんな人だったの!」とだけはならないようにしよう。批判せず、かといって、味気ない理想論だけにならず、思いを込めて記録を残していこうと思います。

あなたは自分が死んだときのこと、考えたことがありますか?

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