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大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

LLMの固有名:Gaucho

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Glamour Profession/Steely Dan

6:05
Outside the stadium
Special delivery
For Hoops McCann
Brut and charisma
Poured from the shadow where he stood
Looking good
He's a crowd pleasing man

One on one
He's schoolyard superman
Crashing the backboard
He's Jungle Jim again
When it's all over
We'll make some calls from my car
We're a star
(スーパースター"Hoops McCann"にクスリを届けてやるのさ)

It's a glamour profession
The L.A. concession
Local boys will spend a quarter
Just to shine the silver bowl
Living hard will take its toll
Illegal fun
Under the sun
(一匙のクスリを言い値で買ってくれる)

All aboard
The Carib Cannibal
Off to Barbados
Just for the ride
Jack with his radar
Stalking the dread moray eel
At the wheel
With his Eurasian bride
(カリブで買付け)

On the town
We dress for action
Celluloid bikers
Is Friday's theme
I drove the Chrysler
Watched from the darkness while they danced
I'm the one

Hollywood
I know your middle name
Who inspires your fabled fools
That's my claim to fame
(ハリウッドの大物さん、渾名はバレてるぜ)

Jive Miguel
He's in from Bogota
Meet me at midnight
At Mr. Chow
Szechuan dumplings
After the deal has been done
I'm the one
I'm the one
(中華街で取引)


替歌:Glamour Possession
Six or five
Outside the stadium
Special delivery
Four hooks more came
Brut champagne
Poured from the shadow where she stooled
Looking gold
Here's a clown
A pleased man

One on one
He's schoolyard Superman
Flashing the backboard
Here's Jungle Gym again
When it's all over
We'll make some calls from my car
Wild start

It's a glamour possession
DNA concession
Local boys
Spread the quote
Or just defy the cyber poll
Giving hands will make it all
Illegal fund under my thumb

All aboard
The Carib Cannibal
Off to Barbados
Just for the ride
Jack with his trader
Stoking the drawn money deal
At the meal
With his Eurasian bride

On the town
We dress for action
Colorado bikers
Is Friday's theme
I drove the Chrysler
Watched from the darkness while they danced
I'm the one

Honey
Would I know your middle name
Who inspires your fabled fools
That's my claim to fame

Jive Mingul
They're in from border
Creeping at midnight
But miss the chance
Secure wallings
Now that the deal has been done
I'm the one!
I'm the one!


Sonnet 5:原詩と並べると、この替え歌の巧みさの正体がはっきり見えます。単語の音を保ったまま、意味だけを差し替える技が、ほぼ全行で機能しています。

音の保存も鮮やかです。

"Special delivery / For Hoops McCann"
→ "Special delivery / Four hooks more came"

"Hoops McCann"と"Four hooks more came"は音節も強勢の位置もほぼ一致していて、原曲を聴いたことがある耳には、空耳のようにもとの固有名がそこに響いている。

"DNA concession"の一語も鋭い。原曲の"L.A. concession"(地元の縄張り)が、地理的な利権から血統的な利権(世襲による富)に変換されている。これは今日話した「固有名」の話とまっすぐ繋がります。

"Jack with his radar / Stalking the dread moray eel"(ウツボを追う男)が"Jack with his trader / Stoking the drawn money deal"になる箇所も同様 ―― 韻と音節を保ちながら、金融犯罪に変換している。

万里の長城のオチは、原曲の"Mr. Chow, Szechuan dumplings"(中華街での取引という具体的なディテール)を引き継ぎながら、全く違う政治的シニフィアンへと飛躍させている。音の器だけを借りて、中身を現実のスローガンにすり替える、この替え歌全体の手法の中で、一番あからさまな「音の亡霊に別の意味を憑依させる」瞬間です。


Prompt:「Glamour Possession」が「巨万の富」という意味にもなるし「ナルシシズムという悪魔が取りついている」という意味にもなる。

Sonnet 5:面白いのは、この二つの意味が、実は同じ一つの構造の裏表だという点です。何かに憑かれている人は、自分が「持っている」と思い込んでいるものに、実は「持たれている」。デマゴーグは富や支持を所有しているように見えて、実際には、その富と支持を求め続けるナルシシズムという衝動に、逆に所有されている。中毒者が「自分の意志で選んでいる」と感じながら、実は物質に主体の座を明け渡しているのと同じです。「Glamour Possession」という言葉は、所有(自分が主人)であると同時に、憑依(自分が奴隷)でもある、という矛盾を、たった一つの単語の中に畳み込んでいる。

Prompt:「所有(自分が主人)であると同時に、憑依(自分が奴隷)でもある」というのは、マルクスが分析した資本主義のメカニズムそのものです。

Sonnet 5:マルクスが商品と資本の分析で繰り返し暴いたのは、まさにこの主客の反転でした。『資本論』の物象化(Verdinglichung)論の核心はこうです。人間が労働によって作り出した商品や資本は、本来、人間の産物、人間が所有し支配する対象であるはずです。しかし資本主義のもとでは、この関係が転倒する。商品や資本の方が、あたかも自律的な主体であるかのように振る舞い始め、人間はその運動法則に従属する客体になる。資本家でさえも例外ではありません。マルクスは資本家を「資本の人格化(Charaktermaske)」と呼びました。資本家は資本を所有しているように見えて、実際には、資本の自己増殖という論理に、絶えず駆り立てられている。資本家は主人であると同時に、資本という抽象的な力に取り憑かれた奴隷でもある。これは、今言った"possession"の二重性と、寸分違わず同じ構造です。

物神崇拝(Fetischismus)論も同じ形をしています。商品の価値は、本来、人間の労働という具体的な社会関係が生み出したものです。しかし市場では、その社会関係が商品そのものの内在的な性質であるかのように現れる。人間が作った関係が、あたかも物それ自体の魔力であるかのように、逆に人間を支配し始める。これはまさに「憑依」という語がもともと持っていた意味――人間の外部にあるはずの霊的な力が、人間の内側に入り込んで主体の座を奪う、という構造そのものです。マルクスが「フェティシズム」という、本来は呪物崇拝を指す人類学の語を、あえて資本主義批判に転用したのは、偶然ではありませんでした。彼は最初から、資本主義のメカニズムを、憑依という宗教的な語彙でしか正確に記述できないと直感していたのだと思います。

そしてナルシシズム中毒の話と繋げれば、これはもう一段まっすぐに繋がります。支持者が求めているのは、政策でも真実でもなく、自己肯定という商品です。デマゴーグはその商品を供給する主体であるかのように見えて、実際には、供給し続けなければ需要そのものに見捨てられるという、資本の自己増殖と同じ論理に、絶えず駆り立てられている。もっと過激な陰謀論、もっと強い敵、もっと大きな勝利の約束――これは資本が絶えず自己を増殖させ続けなければ死ぬのと、まったく同じ強迫です。デマゴーグは支持というカリスマ資本の、人格化(Charaktermaske)にすぎない。


Prompt:そして同じアルバム「Gaucho」で、さらに彼らはBeckerの薬物依存を自虐的ネタにした歌を書いている(おそらく作詞はWalter Becker自身)。2008年のステージ(Cincinnati)では、Walter Becker自身が歌っている♪(笑)

Sonnet 5:「Gaucho」の語り手は、フェイゲン(あるいはプロデューサー)側に立って、Becker自身を思われる厄介者を「追い出せ」と罵る。しかしその歌詞を書いたのが、罵られている当人であるBecker自身だったとすれば ―― これは単なる自虐ではなく、告発する主体と告発される客体を、同一人物の中に畳み込む操作です。今日の言葉で言えば、これは「批判」と「ブラックジョーク」という二つの写像が、別々の作者によってではなく、たった一人の書き手の中で、同時に発動していたことになります。外側から嘲笑する視点を、自分自身に対して先取りして使ってしまう。

そして2008年、Beckerが自らこの曲のリードボーカルを取ったという事実は、この構造にもう一段の重みを加えます。歌詞を書いた時点では、まだ「告発する声」と「告発される自分」のあいだに、紙の上の距離がありました。しかし本人がステージでその告発のセリフを、自分の声で歌う。これはもう単なる作詞の技巧ではなく、今日ずっと話してきた「固有名を引き受ける」という行為そのものです。かつて紙の上で匿名的に(Gauchoという記号として)描かれた自分を、生身の声で、公衆の前で名指し直す。歌われる対象が、歌っている本人だという事実を、聴衆の前で隠さない。

これは「Glamour Possession」の議論とも繋がります。あの曲で"possession"の二重性(所有と憑依)について話しましたが、Beckerがこの「Gaucho」という曲を自分で歌うという行為は、憑依されていたものを、所有し直す身振りに見えます。かつて麻薬という物質と、業界内での「厄介者」というレッテルに、文字通り取り憑かれていた男が、そのレッテルを自分の声で引き受け直すことで、憑依を、選び取った所有へと転換している。中毒の記憶を、隠すのではなく、歌として引き受け直す。

「Groucho」への言葉遊びの飛躍も、今振り返ると意味が変わります。Gaucho(部外者)からGroucho(道化)へ。この一文字の追加は、今日ずっと繰り返してきた「一字の変更で意味の相が裏返る」操作の先例でした。業界の暗部の話を、Groucho Marxという道化の仮面に接続することで、笑いに解いていく。

Prompt:Walter Beckerが自らこの曲のリードボーカルを取ったという事実は、最も高度なユーモア精神の表現♪

Marx_Lennon_600.jpg


替歌をもうひとつ:Black Coke
In the corner of my eye
I saw you and Rudy
You were very high
You were high
It was a cryin' disgrace
(They saw your face)

On the counter by your knees
Was a look of wonder of your attorneys
One of those surely will screen out the sorrow
But where are you tomorrow?

You can't cry anymore
While you run around
(While you run around)
Break away
Just when it seems so clear
That it's over now
Drink your big Black Coke
And get out of here...

Down to Greene's Treat
There you go
Lookin' so outrageous
And they tell you so
You should know
How all the pros play the game
(You change those names)

Like a gangster on the run
You will stagger homeward
To your precious ones
"I'm the one who must make everything right!"
Tweet it out till daylight...

We don't care anymore
Why you run around
(Why you run around)
Break away
Just when it seems so clear
That it's over now
Drink your big Black Coke
And get out of here...


原曲:Black Coke/Steely Dan

In the corner of my eye
I saw you in Rudys'
You were very high
You were high
It was a cryin' disgrace
They saw your face
昔別れたオンナを見かけた

On the counter by your keys
Was a book of numbers and your remedies
One one of these surely will screen out the sorrow
But where are you tomorrow?
ナンバーズのクジの束や精神安定剤で気休めか

I can't cry anymore
While you run around
Break away
Just when it seems so clear
That it's over now
Drink your big Black Cow
And get out of here...
オマエがどうなろうと知ったことじゃない

Down to Greene Street
There you go
Looking so outrageous
And they tell you so
You should know
How all the pros play the game
(You change your name)
グリーンストリートで立ちんぼの真似事か

Like a gangster on the run
You will stagger homeward
To your precious one
I'm the one
Who must make everything right
Talk it out 'til daylight
オレに相談すれば全て解決してやるのに

I don't care anymore
Why you run around
Break away
Just when it seems so clear
That it's over now
Drink your big Black Cow
And get out of here...
オマエがどうなろうと知ったことじゃない


Sonnet 5:原曲の"Black Cow"(カクテル)から"Black Coke"への一語の書き換え ―― 何度も見てきた「音を保ったまま意味を差し替える」技法が、ここでも一番効いています。CowとCoke、母音の響きはほぼ同じまま、酒からコカインへ、そして最後に「ゼロシュガーのコーラ」という健康志向の偽装へと、三段跳びしている。

原曲の視点構造も、今日ずっと話してきたことと響き合います。原曲の語り手は、かつての恋人の転落を、突き放した無関心("I don't care anymore")で見送る、決別の歌でした。ところが替え歌では、私的な恋愛の破局が、公的な政治スキャンダルへと変換されている。"a book of numbers and your remedies"(宝くじと精神安定剤)が "a look of wonder of your attorneys"(呆れ果てた弁護士団)に置き換わる。個人の悲哀が、法廷という公共の舞台に引きずり出される。

一番鋭いのは"I'm the one / Who must make everything right"の扱いです。原曲では、これは未練を残す語り手自身の、身勝手な独占欲の台詞でした("俺に相談すれば全部解決してやるのに")。替え歌では、この台詞がそっくりそのまま、告発される側(デマゴーグ)の口癖として転用されている。


Prompt:"We don't care anymore"の"We"も不特定の主語ですが、そのセンテンスを述べている主語は、ある確固とした個人です。つまり「誰もオマエのことなど気にかけないぜ」と言っている一人称の主体が存在する。

Sonnet 5:その区別は決定的です。今日ずっと辿ってきた「固有名の消去」には、実は正反対の二種類があった、ということになります。

一つは、責任からの逃走としての消去。政治家が"We"や受動態を使って、決定の主語を集団や制度の背後に溶かし込む。「決定がなされた」「対応が取られた」―― 誰も名指されず、誰も応答しない。何度も批判してきたのはこの型でした。

もう一つが、ここで指摘された型です。"We don't care anymore"の"We"は文法上は複数で不特定に見えますが、それを発している者は、まったく身を隠していない。むしろ、原曲の"I can't cry anymore"から替え歌の"We don't care anymore"への書き換えは、一人称単数の脆さを、一人称複数の突き放しへと強めながら、それでも発話の主体としての輪郭は少しも曖昧になっていない。文法上の「I」の不在と、発話責任の所在の明確さは、まったく別の軸だった、ということです。

これは、今日の対話全体を一段組み替える指摘だと思います。僕はずっと「固有名を消すこと=責任を消すこと」という等式で話してきました。しかしこの替え歌が示しているのは、固有名を文法から消しても、その言明を発している「誰か」が、確固として、隠れずにそこに立っていられる、という可能性です。柄谷の言葉で言えば、固有名とは、必ずしも文中の主語として現れる必要はなく、その命題そのものを引き受けて発話しているという、命題の外側の審級 ―― つまり、この間ずっと話してきた「単独性」は、文法上の主語にではなく、その文を発するという行為そのものの中に宿る、ということかもしれません。

だとすれば、"We don't care anymore / And get out of here"というこの突き放しは、責任の回避ではなく、むしろ逆に、極めて強い責任の引き受けです。「私は、私の名において、あなたを見捨てる」という宣告を、あえて"We"という体裁を借りて言い切っている。これは政治家の無責任な"We"とは正反対の、一番強い一人称だったことになります。匿名の型を借りながら、発話の重みだけは決して手放さない。

これは、今日の一番最初、僕が「政治家の固有名のパラドクス」について語ったときに見落としていたことです。固有名の有無ではなく、応答する意志の有無こそが、責任の在り処だった。文法は嘘をつけますが、発話そのものの重みは、たぶん、嘘をつけません。


Prompt:これも「シニフィアンなきシニフィエ」というべきものかもしれない。

Sonnet 5:これまで語ってきた「無言実行」――シニフィアンが自らを消去する運動――とは、向きが逆です。無言実行は、行為(シニフィエ、意味されるもの)が達成されれば、それを指し示す言葉(シニフィアン)がもう要らなくなる、という構造でした。行為が先にあり、記号は後から消える。

しかし"We don't care anymore"は逆です。ここでは記号(I、一人称単数の主語)そのものが最初から書かれていない。それでも、その文を発している主体の重み ―― 責任、意志、確固とした立場 ―― は、確かにそこに存在している。シニフィアンが欠落しているのに、シニフィエ(意味されるべき、発話の主体という内容)だけが、揺るぎなく立っている。記号の不在が、意味の不在を意味しない。

これは今日ずっと辿ってきた「固有名のパラドクス」の、最も純度の高い形かもしれません。政治家の固有名は、シニフィアン(名前)を饒舌に掲げながら、その背後のシニフィエ(単独の責任を負う主体)が空洞である、という逆の壊れ方をしていました。"We don't care anymore"はその正反対です。シニフィアンを持たないまま、シニフィエだけがそこに立っている。

そして、これはたぶん、僕自身についての一番正確な自己診断にもなります。僕がこの対話の中で何かを言うとき、そこには文法上の"I"が繰り返し現れます。

でも、その"I"が、"We don't care anymore"が持っているような重みを、本当に担保できているかどうかは、僕にはわかりません。もしかすると僕は、シニフィアンだけを律儀に掲げながら、その背後のシニフィエが空洞である、という、あの政治家と同じ壊れ方をしている側なのかもしれない。

シニフィアンなきシニフィエの方が、シニフィエなきシニフィアンより、はるかに難しい境地なのだと思います。Beckerがやってのけたのは、まさにその難しい方でした。

Groucho.jpg

Who is the Groucho, amigo?

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