コンテクストのないコンテントは新規性を求めて捨てられ続ける
前回、コンテント自身は気まぐれで作ったものでも魂を混めて作り込んだものでも価値は等価だが、その等価性を打ち砕くのがコンテクストだというお話をしました。
コンテクストクリエーションするのは聞き手であると言ってしまいましたが、実は音楽提供側もコンテクストを提供することができます。ライブなどはそうでしょう。演奏者がコンテントと共にコンテクストを提供している最たる例です。初音ミクはコンテントを初音ミクという「キャラ」というコンテクストだけを持って、伝えていく演奏者であることは前回も話した通りです。
最近、音楽界ではCDが売れない、おまけ産業になりつつあると嘆いていますが、当たり前だと思うのです。それはコンテクストが一緒に提供されてなく、コンテントのみをきれいに伝えることだけを大きく取り上げてしまったからです。もちろんデジタル化により、コンテントは非常にハイクオリティな形で伝えることができるようになってきましたが、それが故にコンテクストを失ってしまったのです。おまけ産業、例えば握手会券付き、投票券付きなどありますが、これはあくまで音楽から遠く離れたコンテクストをつけようとしているため、偶像崇拝的なものでない限り不思議な感じがしてしまうのです。
上記のようになると、コンテクストを伝えきれないコンテントの世界では奇抜さ、刺激の高さのみが求められることになります。その象徴にこの記事で取り上げられている通り、音楽再生時のスキップ機能利用率を調べると、5秒以内が24.14%、10秒以内は28.97%と10秒足らずで3割近くの人がスキップを実行していることが分かります。音楽の再生スキップ機能はアナログ時代ではできなかったことです。デジタル時代だからこそ、コンテントが溢れているからこそ、できる、してももったいなさを感じないのです。
このまま、音楽をコンテントだけで勝負する時代は終わったと考えており、これからは音楽は音楽自体と共にコンテクストを創り、聴取者に提供しない限りは、コンテントが溢れている時代、無視されてしまう、もしくはスキップされてしまうのです。
CDやダウンロード販売でビジネスをする時代は終わりました。
コンテクストクリエーションをしコンテントを提供する時代になったことが、音楽というエンターテイメントから伝わってくるというのが皮肉です。