初音ミクは知っている、コンテクストが等価性を壊す
都営大江戸線、六本木駅、2014年10月15日現在、レッドブル・ミュージック・アカデミー東京の告知でいっぱいである。
レッドブル・ミュージック・アカデミーは若く才能溢れるアーティストたちを支援する世界を旅する音楽学校だと説明されており、今回16回目は東京で初開催されるということだ。
まぁ、レッドブル・ミュージック・アカデミーは東京で初開催されることは、音楽ファンなら一度は目にしたり耳にしたりしているだろう。
それ自体はどうでもいいのですが、この広告は各アーティストの音楽に対する奥深い言葉が記載されている。ゆっくり深い深い都営大江戸線の六本木駅のホームから改札へ上がっていくエスカレーターで眺めるには丁度いい長さの文章が刻まれている。
結構どれも、秀逸なのだが、特に秀逸なのが「初音ミク」の文である。初音ミクは説明は要らないだろうが、ボーカロイドと呼ばれる歌を歌わせることのできるソフトウエア上のキャラの名前だ。もちろん東京、日本で開催されるということで、重要な「キャラ」ではあるが「人物」ではない。多分、この文も「初音ミク」の関係者が書いた文なのだろう。でも、これが秀逸である。
気まぐれに作った歌も
魂を混めて作り込んだ曲も
私の中で通り過ぎる
データはすべてが
等しく愛おしい
彼女はあくまでも人ではない。「キャラ」である。愛おしいと本当に感じているかというのは兎も角として、気まぐれで作った歌でも魂を混めて作り込んだ曲も彼女の中ではデータということで等しい。そう、等しいのだ。
実は我々、人間にとっても、気まぐれで作った歌でも魂を混めて作り込んだ曲もプロセスは関係ない。感動する歌は感動する。どうでもいい音はどうでもいい。でも音というのは同じなのである。
「初音ミク」という「表現者」は、彼女のキャラ以上のコンテクストは提供しない。
その人が持つコンテクスト、その流れる音のコンテクストがマッチしたときに初めて曲というコンテントに感動を覚えるのだ。コンテクストによってデータの等しさを壊す。
その等しさの破壊は、時には価値を生む。これこそコンテクストのなせる技だ。
「初音ミク」は分かっているのだ。
コンテクストクリエーションするのは聞き手であることを。