オルタナティブ・ブログ > イメージ AndAlso ロジック >

ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

流れにまかせて、生きる。ギターの音とともに。 ~ 絵と詩と音楽 (n) ~

»

これまで、ブログでは、筆者と音楽のかかわりについて触れたことがなかった。
これから数回にわけて、過去と現在を往来しつつ振り返り、そのうえで、これからの音楽について考えてみる。

今回は、学生時代のできごと、そして、アルディメオラを神と崇める背景。

ギターを手にした理由。ラテン×速弾きに憧れて。

幼稚園にオルガンがあった。なんとなく弾き始め、なんとなくアレンジを始めた。
小学3年生からピアノを習った。だが、住宅街では、短時間しか練習できない。習いごとは諦めた。
小4の遠足の帰り道、うららかな春。頭の中に音楽が流れてきた。翌年、宮澤賢治の「春と修羅」を買った。「春」という詩と主旋律が出会い、初めての自作曲ができた。
「岩手軽便鉄道の7月」「真空溶媒」...いくつかの詩に曲を付け始めた。

父も母も、演奏はしないが、音楽は好きだ。自宅に、小さなステレオと、シングル盤が数十枚あった。明るいラテンが好きで、繰り返し聞いた。ピアノで弾いて楽しんだ。
学校の音楽室には、伴奏つきのアコーディオンがあり、自由に使うことができた。放課後、晴れの日は校庭で球技を楽しみ、雨の日は音楽室でバンドネオンを気取って、タンゴを弾いた。アディオス・ムチャーチョス!

ある日、NHKの「世界の音楽」という番組で、ギターデュオが奏でる「トルコ行進曲」に出会った。その速弾きに圧倒され、ふと思った。バンドネオンの旋律を、ギターで置き換えたら、どんなにか素晴らしいことだろう。

中学生になり英語の授業が始まった。友人のすすめで、洋楽を聴いてみた。自分でも作詞してみよう。英詩を書き始めた。
米国の歌手たちは、ギターを抱えていた。だが、1970年代の日本では、ギターといえば「ガロ」の印象が強かった。ヴィジュアルがアイドルとは真逆。そのため、ギターという楽器そのものに良い印象を持たない親も少なくなかった。
そこで、考えた。ほかの弦楽器から始めよう。自宅に、パリマンドリンクラブのシングル盤があった。これなら反対するまい。購入許可を得た。完全独学。
母を説得し続け、中3でアコースティックギターを手にした。ネットなどない時代。ギター教室もない。書店に1冊だけ、楽譜集があった。「ギターソロで弾くスクリーンミュージック」。
ふたたび完全独学。最初に弾いたのは「夜霧のしのび逢い」。弾けるようになるとおもしろくて、母の好きな古賀政男の「湯の町エレジー」を耳コピで弾いた。
どちらも中学生が弾く曲ではない。何がテーマの曲なのか全くわかっちゃいない。ただ、年寄りたちが喜ぶので弾いていたのだ。

見たことがなくても、習う機会がなくても、考えてみる。ヒトの能力は跳躍する―――と、筆者は信じている。
それが法や制度などヒトが意図して作った社会のしくみならば、習う方がよい。早く解決する。
だが、クリエーティブな作業については、必ずしもそうではない。考え抜くことで、脳の神経系が進展する。すぐに答えを得た場合と、考え抜いた場合では、脳は異なる発達をするはずだ。そうして伸びた神経系でこそ、生み出せるものがあるのではないか。

友人に協力、デモテープを突貫工事。ライブを知る。

高1でエレキに持ち替えた。バンドネオンの音を、哀愁をおびた音で置き換えてみたいと考えたのだ。
1970年代後半の、ある日。同級生が声をかけてきた。1カ月後、公開生放送のライブがある。出演したい。バンドを結成する。応募期限までの1週間、放課後を利用して、6曲入りのデモテープを作る。歌はできている。ボーカル・コーラス・サイドギター・ピアノ・管楽器1名は確保した。アレンジャーとソロプレイヤーが必要だ。頼む。
事情をのみ込めないまま、参加した。楽曲を聴いたその場でアレンジ、ラフな楽譜を書いて渡し、自身は即興。
デモテープオーディションに合格。10バンドほどが出演するステージに立った。

他の出演者の演奏を控室のモニターで見て、会場の生の反応を感じ取ることができた。作る側と聴く側、双方向の情報交換が、原曲以上の価値を生み出す場があることを知った。

最近、「6弦のカナリア」執筆のためにライブ関係の情報を検索していたところ、偶然、件のライブのプロデューサーの情報に遭遇した。CBSソニーなどレコード会社からプロデューサー20名が来場していたという。そういえば、社会人の出演者たちはすみやかにデビューしていた。出演後、遠縁まで騒がしかった理由は、それだったのか。
筆者の参加したバンドのメンバーたちはといえば、進学校の学生。ライブが終わるや「出演という目標は達成した。音楽はあくまで趣味。プロを目指す考えはない」と明言し、猛然と受験勉強を始め、合格し、旅立って行った。
受験勉強に意味を見出せなかった筆者は、ひとり、を作り続けた。

音楽の話を書いているが、筆者の本業は図解イラストレーターだ。中3のとき、科学技術書の装丁や挿画を手掛ける著名イラストレーターの事務所に就職するよう、学年主任の教師から提案されていた。だが、(防犯面と中卒になるという点で)両親の許可を得られなかった。そこで、高専の電気科を希望したら、女子学生用の設備がないという理由で、高専側から「待った」がかかった。仕方なく、仲良しの友だち二人が受験するという高校に進んだのだ。

そのようなわけで、第一の関心事は、音楽よりも絵だった。高校時代は、シュルレアリスムに傾倒していた。シュルレアリスムからのスペインつながりで、フラメンコギタリストのパコデルシアを知った。
ある日、パコデルシアの出演するライブがラジオで放送された。期待に胸躍らせて待っていると、格闘技のような速弾きが流れてきた。「地中海の舞踏」!!!!!!
パコデルシア、アルディメオラ、ジョンマクラフリンのスーパーギタートリオ!伝説のサンフランシスコのライブだった。パコとは異なる、アルディメオラの音に魅了された。
ディメオラは、筆者が夢見た「バンドネオンをギターで置き換えて」超人的なテクニックで演奏する芸術家だった。「ギターの神様」として崇めるようになった。

ソロ・ライブは断念。日本語の作詞へ一歩を踏み出す。

フリーランスでイラストの仕事をするには、少しでも仕事のありそうな町へ、という考えから大学を受験した。実家から離れ、音楽仲間ができ、ライブ活動を始めた。バックで弾くだけでなく、ソロにも挑戦してみた。ギター弾き語り、ピアノ弾き語り。すぐに、ソロは不可能だとわかった。前奏で大きな拍手が沸き起こる。歌い始めると静まり返る。感動するからではない。ぎこちない電子的な歌い方が、アナログの伴奏と乖離して聞き苦しいのだ。
歌い手を探した。だが、昭和の時代、英詩を歌ってくれる人に巡り合えない。かといって、日本語で書くと、自分でもウンザリするほど表面的な言葉しか出てこないのだった。

そうこうするうちに、父が脳梗塞の後遺症に見舞われ、実家の経済がたちゆかなくなった。
駈け出しのフリーでは稼げない。郷里の広告代理店兼制作会社が、イラストレーターを募集していた。18歳のときに描いて、創刊直後の玄光社のイラスト雑誌に応募、豆粒掲載されたイラスト(湯村輝彦選)の原画を、履歴書に添えて送った。経験者採用で就職。新聞社と放送局の支社のあるビル。昼も夜もない。午前に帰宅する日々。音楽から遠ざかった。

入社後数カ月のある日。社長が声をかけてきた。
新聞に月1回折り込んでいる付録誌。読者からの要望で、コンピュータ特集を組むことになった。だが、わが社にも新聞社にもコンピュータに触ったことのあるスタッフがいない。頼む。
企画・取材・撮影・執筆・編集・イラスト・デザイン・レイアウト・版下まで、ひとりで担当した。21歳。技術を紹介するライターとしての初仕事。この散文の執筆が、韻文への関心と結びつき、後に、コピーライターの仕事につながった。それから日本語の歌詞を書けるようになったのだった。

ものごころついた頃から、俗世とは相性がよろしくないようだ。できるだけ頼みごとには応えつつ、流れにまかせて、ノリで生きている。曲りくねった川をくだる。絶望もせず、希望もなく。

music_P1.png

次回「AIの時代に、残る音楽。演奏家によるライブと、人体センシング。」は、明日公開予定。

Comment(0)