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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

香り伝送ビジネスが本格化するとき ~嗅覚センサーを見直そう(9)~

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思い出の香りを失わないための、生涯現役労働

我が国にインターネットが普及し始めて20余年。
28,800モデムで、テキストや軽量の画像や音声を送受信していた時代から、大容量の動画をストリーミングできる時代になった。
VR/MR技術は、空間を超えてリアルなイメージを構築する。BMIは、脳内情報の取得と再現への扉を開く。

そして次は、香りである。ここ数年、実用化に弾みがついているようである。

基本は、香りの構成情報を送信して、受信側のデバイスでセットされている香りを噴霧するというものになるとみられる。
多種多様な香りを伝送するには、香り成分の情報を送信し、受け手のデバイス側に搭載したカートリッジの香料を合成する。
それらは、送信側があらかじめ設計した香りとなる。

ユーザーが単独で発生させることのできる香りとしては、思い出と結びつく香りがあげられる。
体験と香りの関連付けられた思い出の情報を、ライフログとして蓄積していく。映像や画像などの脳内情報をトリガとして、香りの記憶を呼び出す。その情報をもとに、デバイスに搭載した香料を合成して、脳内に再現する映像に合わせて噴霧し、香り付きの思い出を喚起する。ライフログにユーザーの関わったひとの情報が蓄積していくことになるため、個人情報の問題は付きまとうものの、こうしたサービスは間違いなく登場する。

香りを放つデバイスと、使用期限のある香料。ユーザー側が払うコストを考えると、かなり先にはなるが、それらを使用しない方法も現れる。
物理的な香料を鼻から吸引しなくても、記憶された香りの情報を、「あたかも鼻で嗅いだように」脳内に再現する処理が登場する。
ダイレクトに嗅内皮質に作用するデバイスによって、香りを喚起する非侵襲的方法である。さすがに、脳への埋め込み装置という侵襲的な方法は、倫理的な問題から、「しばらくは」登場しないと思われる。恐れを知らぬデベロッパーが自分の研究室内でテストすることはあるとしても。

写真にせよ、映像にせよ、音楽にせよ、我々は、思い出を喚起するトリガとなる情報をもつ。技術が進化しても、情報の形式は変わりこそすれ、思い出から逃れることは難しいだろう。意図して、物理的に、医療と技術の力を借りて、思い出をリムーブするのでなければ。

その昔、思い出の情報はといえば、何枚かの紙焼きの写真や品物だった。それら以外の情報は、我々のこころの中に保存するしかなかった。だが、今や我々は、外部デバイスに記憶の保存を代行してもらうことができる。
重要な思い出を失わないようにクラウドを利用し、複数のメディアにバックアップを取る。そして、再現するために、複数のデバイスを所有する。

この一連の行動は、キャッシュレス社会と同様の問題を投げかける。
「正常に動作する」デバイスを持ち、「最新の状態」にしておかなければ、ライフラインが止まったり、自分の属性を証明できなくなるかもしれない。恐怖心から、そのリスクを回避するための行動に縛られる、という問題だ。
ひとびとは、香り付き記憶の再現サービスを契約できるだけの信用情報と、思い出にアクセスするための最新デバイスを失うリスクに、おびえ始める。

サービスを受けるために働き続け、サポート終了前に次のデバイスを購入して、環境のバージョンアップを繰り返す。
高齢になるほど働くのはつらくなるが、困ったことに、高齢になり身体が動きにくくなるほど思い出は重要度を増すのだ。思い出を「香り付きで」再現したければ、働かざるをえない。

サービスを利用できなくなったときには、思い出との決別が待っている。
そこで、海馬に残る記憶を呼び覚まそうとしても、記録と呼び出しを計算機に依存して「具体的な体験を再現して与えてもらう」ことに慣れきった脳は、もはや機能しない。

ミックスされる香りと、カオス化するマナー

われわれの多くはまだ、無臭の空気がデフォルトだとおもっている。だが、香り付き製品の(単なるユーザーではない)パワーユーザーにとっては、好みの香りの付いた空気がデフォルトだ。その香りがしない日常は考えられないだろう。香りに依存を形成してしまう。

そのうえに前述のようなサービスが始まると、香りへの依存だけでなく、香りある思い出への依存まで追加されてしまう。
あったはずのものがなくなる喪失体験は、ヒトにとって、もっとも耐えがたいストレスだ。そのストレスを避けようとするのは、ヒトとして自然な行為である。
そして、依存は、一日に何度もの、頻回な思い出の呼び出し処理を引き起こすようになる。

前述のサービスのうち、ユーザーの脳内に香り記憶を再現する処理ではなく、ユーザーのデバイスで物理的に再現する処理であれば、実際に、デバイスがある場所に香りが漂うことになる。
ユーザーにとって、香り付き洗剤や柔軟剤が思い出の香りであるなら、それらを再現することになる。
町中のあちこちで、四六時中、さまざまな香りが立つようになる。AIの進化による「暇」が、輪をかける。

香りを再現するカートリッジが極小化すれば、単一の香りならば、商品にシールとして貼り付けて、デバイスからの操作で放つことも可能になる。
新製品が発売されると、店舗で、購入する前に、パッケージを開けずとも、強い香りを嗅ぐことができる。ところが、商品の香りを確認するためのサービスのはずが、マナーを無視したユーザーが、複数の商品の香りを起動させる。「嗅いでみました!」SNSに投稿する。閲覧したユーザーは、それがどのような香りなのか興味津々、自分のデバイスで香りを再現する。複数のユーザーがネカフェやシェアオフィスから同時にアクセスしていたら、換気は追いつかない。

新しいサービスのルール作り、規制、マナーの徹底は、後手後手にまわる。
町中いたるところで、多種多様な香りが立ち、それらはミックスされ、大気中に放出される。カオス化するマナーをただす術はない。誰も、行為を制御することができない。ランダムにミックスされたそれは、もはや香りではなく、悪臭でしかない。

それでも、香りを自粛する者は、多くはない。
人生を奪われる化学物質過敏症者の苦しみを知りえてもなお、他者の生命と日用品をてんびんにかけてもなお、後者を優先するひとがいるように。香りへの依存が形成されたのちに、香りを断ち切ることは難しい。禁酒、禁煙の次は、禁香に悩むひとが増えるだろうか?

そうして、海も山も森も砂漠も、室内も社内も車内も店内も、学校も病院も役所も金融機関も、場所を問わず、香りはあふれる。そこかしこに、散り散りになったマイクロカプセルの吹き溜まりができ、歩くたび舞い上がる。海に散らばったマイクロカプセルは、回収できない。それは、深海の流れによって、洗剤を使わない国のひとびとのもとに流れ着き、海産物に取り込まれる。

世界中の、香りから逃れたいひとびとのために、無臭の空気を提供するビジネスが始まる。これもまた、有償のサービスとなる。

呼吸器から取り込まれ、血流にのって、脳にたどりつく香料。食物連鎖に組み込まれる、有害物質を吸着したマイクロプラスティック人工光合成で酸素を生成しても、漂うプラスティックを追い払うのに四苦八苦。
デトックスするためのサプリメント。そのサプリメントの副作用を打ち消すためのサプリメント。眼鏡や補聴器とは逆の機能を持つ、嗅覚を鈍らせるアクセサリ。悪臭に心を病んだひとびとへのカウンセリング。新たな商品やサービスが、雨後の筍のように現れる。

格差社会は加速する。空気と水を得られる者がサバイバル。
広い敷地に置かれたシェルターの、きれいな空気の満たされた部屋で、きれいな水で入れた飲み物を飲みながら、木々の発する自然の香りとともに思い出を楽しむひと。
かたや同僚たちとぎゅうづめの空気の濁った職場で、思い出を失いたくないがために、デバイスを使い続けるために、明日のぶんのきれいな空気を手に入れるために、壊れかけたガスマスクを着けて働くひと。

そこまで悲壮な未来にはならないとしても、現在の香りビジネスが十年単位で続くならば、無臭の、きれいな空気が、ぜいたく品になる事態は避けられないだろう。

安全な水、大気、思い出は、われわれの手の中から失せた。それらはもはや、ビジネスのタネでしかないのかもしれない。

業界によって、責任の所在は異なるか?

昭和、平成の時代までは、比較的きれいな空気を「一生」「無償で」手に入れることができた。
これを覆す香りビジネス。
望ましくない未来へ、我々を押しやろうとしているのは、誰なのか。

メーカーなのか。身動きのとれない行政のシステムなのか。国なのか、自治体なのか。広告代理店なのか、俳優やタレントなのか、テレビ局なのか。それとも、香り付き製品のユーザーなのか?

香害に悩むひとびとの多くは、メーカーに対して問うだろう。
一方、メーカー側からすれば、責任は特定のユーザーにあると「考えるかもしれない」。用法用量が守られていれば、すべての消費者がTPOをわきまえて使っていれば、これほどまでに問題は顕在化していないだろうからだ。それは一面では正しい。一部のパワーユーザーが問題を加速させている。
メーカーか消費者かの二項対立。その二項の間で、無香を心がけてきた消費者は翻弄される。
はたして責任は、誰にあるのか。

ユーザー個人のベネフィット、リスク。社会的なベネフィット、リスク。この4つを考える必要がある。

香り付きの洗剤や柔軟剤の除放技術およびその関連技術は、ユーザー個人にとっては、リラックス効果などのベネフィットをもたらす画期的なものだ。その一方で、健康被害が生じる恐れというリスクもある。
社会的には、(環境汚染を含めなくとも)ベネフィットはわずかで、リスクのほうが大きいだろう。
現時点では、社会的なリスクは、個人的なベネフィットで帳消しにされている格好だ。

では、これが日用品ではなく、ソフトウェアやシステムであったら、どうだろう?

IT業界において、一部のユーザーによって、他者や社会に悪影響が生じた場合、責任を負うのは、開発元企業か、開発者個人か、ユーザーか。
たとえば、ファイル共有ソフト Winny においては、見込まれる社会的なベネフィットよりも、社会的なリスクのほうが、クローズアップされたと記憶している。そして、最終的には?(Winnyは"有罪"か? 2004年05月17日 19時53分 公開 [岡田有花,ITmedia]

業界やそれぞれの商品によって、異なる基準が適用されるようになるのだろうか?
社会的ベネフィットが大きくても開発者が責任を問われたり、社会的にはリスクしかなくとも開発者は責任を問われない、というようなことが、今後、起こりうるだろうか?

わたしは、法律の専門家ではないので、なにやら複雑な問題が起こりそうだと警告を発することはできても、それに対して何の答えも持たない。どのように考えるのが妥当であるかを書くこともできない。
ただ、AIが進化して、国民総プログラマとまではいかずとも、国民総パワーユーザーのような状況になった暁には、IT業界と他の業界のあいだに矛盾が生じようものなら、ボヤがくすぶり続けることになってしまう。経済活動に支障をきたさないようにするためには、誰の責任を問うかにかかわらず、IT業界の基準が、すべての業界の標準になっていく可能性を否定できないだろうとおもっている。

今後、香り伝送ビジネスが本格化するまでに、それぞれのひとが、それぞれの立場で、考えてみる必要があるだろう。

ベネフィットとリスクの両方を知る、貴重なひとびと。

この複雑な問題、いったい、どのような切り口で捉えれば着地点が見えてくるのか。表現規制を例にとって、考えてみる。

ゲーム、アニメ、映画を見たひとのごく一部が、模倣して加害行為をしたという報道を目にすることがある。すると、表現規制の議論が始まる。

規制を主張するひとは、人生の重さは何にも勝るものであり、多少なりともリスクがあるなら、安全な暮らしのために、行きすぎた表現をあらかじめ排除したほうがよいのではと考える。

その一方で、表現の自由を規制すべきでないという声もあがる。大半のひとびとは、虚構と現実を区別することができ、コンテンツを楽しみはしても、模倣することはない、というのが理由のひとつだろう。

どちらの言い分も、もっともであり、難しい問題だ。
結局、今後発生するかもしれない出来事によって失われる「可能性のある」「少数の」「未来」と、今後創作されるコンテンツによって「確実に得られる」「多くのひとびとの」「楽しみ」。確率と人口と価値、何に重きを置いて、リスクとベネフィットのどちらを優先するかという問題に行きつくのではないだろうか。

香りの問題も、同じ側面をもつ。

今後発生する「可能性のある」「半数に満たない」「化学物質過敏症者」と、香り付き製品によって「確実に得られる」「過半数以上のひとびとの」「幸福感」の、確率と人口と価値、何に重きを置いて、どちらを優先するかという問題に行きついてしまう。

ニーズなきところにシーズなし。だが、用法用量を守らないユーザーをゼロにできるはずもない。消費者に対して、使用上の注意をいくら訴えたところで、(多少の効果はあるとしても)、そのメッセージを届ける必要のないひとには届くものの、届ける必要のあるひとには届かない、という困った現象が起こる。

この問題を考えるには、まず、香り付き製品に含まれているとされる人工香料とカプセルの物質の人体に対する影響を明らかにし、現在メリットを得ているひとびとの何割が、どの程度の期間で、化学物質過敏症に移行する可能性があるのかを、概算でも明らかにしなければ、香り付き製品愛好者からの反発は必至だろう。

リスクとベネフィットのうち、香り付き製品のユーザーは、ベネフィットをじゅうぶんに体感していることだろう。だが、リスクについては、あまり知らないようでもある。
香り付き製品のユーザーは、どれほど生活や仕事や人生が損なわれているひとがいるか、そのリスクを想像してみる。一方、香害に苦しむひとびとは、香り付き製品のユーザーが得ているベネフィットを想像してみる。
互いに、リスクとベネフィットを想像してみなければならないだろう。

わたし自身は、数十年、石鹸洗剤を使っているので、合成洗剤の情報にはアンテナを立てておらず、諦観していた。テレビも夕食時に相方がつけているのを20分ほど横目で眺めるだけで、香り以前に、合成洗剤も柔軟剤も使うつもりがないから、CMに出てくる女優さんやタレントさんはきれいだなーとしか思っていなかった。コロンは持っているが、冠婚葬祭用の服を入れた衣装ケースに、蓋を締めたままシダーブロックとともに入れているだけなので、ほとんど揮発せず、布に鼻を近づけて懸命に嗅がなければが分からない程度の、かすかな香りしかついていない。
そんなだから、香り付き洗剤や柔軟剤のメリットは体験しておらず、想像することしかできない。
そして、ここ1~2年、いきなり香り付き製品によって生活が複雑化するというリスクに見舞われ、押しつぶされそうになっている。
つまり、ベネフィットはゼロで、リスクしかない、という立場である。

だからこそ、われわれは、知る必要がある。
香り付き製品のユーザーでベネフィットを得ておきながら、ある日突然、香害に苦しむ立場になったひとびとの考えを。
そのひとびとは、ベネフィットとリスクの両方を、身をもって知っている。公正に、この問題を捉えて、語ることができるだろう。

メディアには、そうしたひとびとの声を、もっと取り上げてほしいものである。

以下は、アーカイブだ。

1996年~1998年にかけて、地域ポータルの編集者のコーナーに、雑文を掲載していた。
その中の一部を、当時のHTMLをそのままコピペで再掲載する。

1996年当時、わたしは、FMV DeskPower SEというパソコンに、メモリやらボードやらを増設しまくって使っていた。Windows 95のリカバリは、ディスクではなく、3.5インチFD。133MHz、28800モデムであって、小さい画像1枚送受信するにも、ずいぶんと時間がかかった。
そんな状況だったから、においを伝送する技術の実現など、はるかに遠い先の話だった。

「インターネット喫茶」とか、「ウェブサイト」ではなく「ホームページ」という言葉のほうが通じやすかったところが、いかにも1996年だ......。

「ホームページの最大の弱点」(1996年12月11日公開)

ホームページの最大の弱点、それは「臭い」を送受信できないことである。
臭覚は、ヒトの五感のなかで最も原始的な感覚であると言われている。
つまり、いちばん訴求しやすい感覚といえるのではないか。
視覚や聴覚からの情報は意識的に遮断することができる。
たとえば、いくら周りが騒がしくても仕事はできる、という人もいる。耳からの情報をシャットアウトしているのだ。
視覚も同様だ。たとえば今この画面を見ているあなたの目は文字を追っていて、ブラウザのメニューには心は留まっていないはずだ。

しかし、臭いは、違う。
「いい臭い」か「いやな臭い」か、とにかく臭うという事実は、なかなか意識的にシャットアウトすることができないのではないか。
ホームページやVTRで、花や料理を扱う場合、臭いを送信できたらと思う。
逆に、精進の身だから、ラーメンやステーキの臭いなど送信されては困る。胃が1回転するからだ。勝手である。

インターネット喫茶で、何台ものパソコンでお客さまがネットサーフィンを楽しむ場合、臭いが受信できたら、たいへんなことになる。
どういうことになるかといえば。
後は、皆さまで、ご想像いただきたい。

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