デザインの完成形 ~過去の随筆(2005年8月21日)の再掲載~
子供の頃には誰にでも、いろいろと、将来なりたいものがある。
小学生のころ、アートの関係の職業につきたいと思ったとき、その中で、まずわたしが夢見たのは、ジュエリーデザイナーだった。理由は単純。鉱物が好きなのだ。
しかし、致命的な出来事が起きてしまった。
「登呂遺跡の謎」という本を読んで考古学にハマり、ある出土品の展示会に出かけた。
そこで、勾玉と出会ってしまったのだ。
そのフォルムに、ノックアウトされてしまった。
それは、完成されていた。足すものも引くものもなく、自然な形をしていた。「こんな完全なデザインは、自分には出来ない。一生かけてもできない。それどころか、こんな完全なデザインは、誰も、できないのではないか」そう思った。「これから、どんなに勉強して、努力して、良いデザインをしたと思っても、それは小手先の飾りで、こんな形は生み出せない。そもそも、既に完成した形が目の前にあるではないか」
その瞬間、ジュエリーデザイナーになる夢をきれいサッパリあきらめてしまった。
もし、あのとき、勾玉と出会わなければ、いまとは違う職業に就いていたかもしれない。
人との出会いが、人生を左右するというけれど、モノとの出会いが、人生を左右することもある。
現象の形はおもしろい。 肉料理の皿の横には「この木何の木」のミニチュアの塩茹で(=ブロッコリー)が乗っかっているし、ツバメとペンギンは同じブランドの服を着ている。
自然の生み出す作意のない完成形に、人間は、太刀打ちできない。
ヴィジュアルデザインとは、突き詰めてしまえば、自分たちの消費する物質に、視覚で判別可能な主キーを生成していく仕事なのだろうか。
もっとも、その主キーがなければ、飽きっぽい人類は、焦燥感の中に、投げ出されてしまうことになるんだろうなあ。