よく分からないこと/知識が僕らの邪魔をする/靴文化と畳文化
ひとくちコラム × 3本
よく分からないこと
私は四国に住んでいるので、東京と福島、どちらかにより近いわけではない。
東京にも、福島にも、友人がいる。どちらの友人たちも、良い人たちだ。
しいていえば、仕事では、東京の人との付き合いの方が多いが、どちらか一方に利害関係があるわけではない。
そんな私が、日々ニュースを見ていると、いくら考えてもよく分からないことに遭遇する。
福島の野菜を東京で販売している件が、特に、よく分からない。
東京の人たちは、福島の人たちに対し、「東京で使う電力のために迷惑をかけてしまった福島の皆さんに、野菜を買うことでしかお詫びの気持ちを表すことができなくて、ほんとうに申し訳ない」と思っているのではないかと推測しているのだが、ニュースの見出しの多くは、「農家を支援」という表現になっている。
「困っている福島が気の毒だから支援してあげている」ような表現だなあと思ってしまう。
私の受け止め方が、おかしいのかな?
難しくて、よく分からない。
知識が僕らの邪魔をする
生命におよぶ危険は、考えて判断するものではなく、直感的に知るものだとばかり思っていたが、どうやらそれは間違いらしい。
豊富な知識があって、思考して、初めて危険かどうかの判断をするものらしい。
考えて判断するのだから、判断材料となるデータが必要だ。
ところが、そのデータが正しいのか正しくないのか分からないときている。
信じてよいのかどうかさえ、分からない。
言葉で語りえるものに頼り過ぎる傾向が、直感の起動を邪魔しているように思えてならない。
「危ない!」と直感したら、一目散に逃げてもいいのではないかと思うのだけれど、逃げる理由はデータを示して言葉で伝えられるものでなければならないのだろうか。そうしなければ、軋轢が生じるのだろうか。
生命と健康あってこその人生ではないのか。
靴文化と、畳文化
開発案件では迅速レスをする私も、こと文章については練るほうであって、反射がよろしくない。
メールの返信ひとつ書くにも熟考してしまうタイプであって、遅筆である。
そのため、Twitterは、ようやくさいきんアカウントを作ったものの、フォローしているだけ。
Facebookは、仕事の方でお誘いを受けて始めたけれど、正直なところ、まだ、戸惑っている。
mixiは、プライベートで、よく使っている。構造や関連性が色で表現されており視線が定まりやすいので、使いやすい。
Facebookは、画面を開くと、少し、かまえてしまう。
文化が違うように感じられるのである。
Facebookは、靴文化。mixiは、玄関で、靴を脱いで上がる畳文化。という感じがするのだ。私は日本人なので、畳の方が、リラックスできる。
逆に言えば、Facebookは仕事用に使えばいいのかもしれない。でも、友だちはプライベートでも使っているからなあ。
慣れなければ、とは思うのだけれど。