@IHayato さんの「プロタゴラスとぬるま湯肯定論」に寄せて
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お世話になっております。
ループス岡村です。
先日書いた「【まとめ】ソーシャルメディアという言葉に踊らされないために、知っておいて欲しいこと」というエントリを、@IHayato さんのブログで取り上げていただきました(記事タイトル:「プロタゴラスと「ぬるま湯」肯定論)。
どんな事柄にしろ、自分以外の方がものごとをどう捉えているかを知ることはとても楽しいです。「ハヤトさんってこんな風に考えているのかねー」と思いながら読ませていただきました。
同氏のブログで「ご意見どうぞ」的な事が書かれていたので、読書感想文を書いてみたいと思います。(これがブログ☆コミュニケーションですかね!はじめてなのでワクワクします)
同ブログの内容ですが、タイトルから察するに「ぬるま湯の肯定」がテーマになっています。「ぬるま湯」という言葉は、「ぬるま湯につかる」という風に用いられ、一般的にはあまりいい意味ではありません。はてなキーワードの説明は適当だと感じましたので、以下に転載します。
ぬるま湯(一般)
【よみ】ぬるまゆぬるいお湯のこと。特に風呂の湯加減を指して言う。
転じて、いい加減な様子や、居心地の良い状態を、堕落しているという意味で喩える際にも用いられる表現。
はてなキーワードより転載
さて、この「居心地の良い状態におり、堕落している」という言葉を「肯定」するというハヤト氏の真意はなんなのか。この点が同エントリの核心であり、その論拠をタイトルに挙げたプロタゴラス(古代ギリシアの哲学者。詳細はリンク先参照)の言葉に寄る、という展開になっています。
プロタゴラスの言葉を解説する、ハヤト氏の文章を引用しておきます。
「万物の尺度は人間である」というプロタゴラスの言葉があります。2,500年前の言葉です。
特に難しい言葉ではなく、人によって捉え方・感じ方は違って当然、というくらいの意味で良いと思います。僕のスタンスはかなりこの言葉に根ざしています。
プロタなんとかさんの主張は「相対主義」という考え方に根ざしているらしいので、Wikipediaの表記を軽く引用しておきます。
相対主義
相対主義とは、経験ないし文化の諸要素やその見方が、その他の複数の要素や見方と相対的関係すなわち相互依存関係にあるという考え方である。例えば、背が高い人は、彼よりも背が低い人がいなければ想定しえない。逆に、背が低い人も、彼より背が高い人がいなければ想定しえない。(中略)プロタゴラスは、ある人には風は温かく感じられ、別の人には冷たく感じられるので、風そのものは温かいのかそれとも冷たいのかという問いには答えがないと述べた。
Wikipediaより引用
なるほどー。私は哲学とか難しいことはよくわからないのでとりあえずスルーです。今はプロタポルテよりハヤトさんが考えていることが気になります。
以下に、ハヤトさんが「ぬるま湯」に関して語っている部分を要約してまとめます。
- ハヤトさんの考える「ぬるま湯」
- 「興味分野や志向性の近い人が集まる状態」を「ぬるま湯」と表現されることがある
- 一般的な意味での「ぬるま湯」と、客観的にそう見えるが異なる場合がある
(原文:「同好の士」が寄り合うことで、切磋琢磨する状態です。それは「ぬるま湯」とは紙一重) - 似たもの同士が寄り集まることが「快適で心地良い」とは限らない
(原文:ソーシャルウェブ上で群れていたって、その人の実生活には苦悩があるはず、似たもの同士とはいえ十分すぎるほど似てない、等) - 「ぬるま湯」に見えるかどうかは見る側の主観の問題
(原文:(批判する側の)彼・彼女の尺度では事実なので仕方ない)
批判的な文脈において、「ぬるま湯」という単語が持つ「温度」という属性が「心地良さ」の尺度であることは間違いないと思うのですが、上記の抜粋をみると、「ぬるま湯肯定論」というタイトルには少々語弊があるように思います。ハヤトさんは「ぬるま湯にみえるけどぬるま湯じゃない」ケースが身近にあるとし、その価値を強調しています。世間一般がいう「ぬるま湯につかった状態」とは、言い換えれば「心地良い環境を選択的に作り上げた結果、及びそれを目指した活動」という意味かと思いますが、ハヤトさんは、別にそれ(一般的な「ぬるま湯」に使った状態)を良しとしてはいないようです。
■ハヤト氏が「プロタゴラス」に託した思い
ハヤトさんが、同エントリ内で「ぬるま湯」を肯定したいわけではないとすると、本当に伝えたかったメッセージはどこにあるのでしょうか。
同エントリで出てくる比喩としては、「ぬるま湯」以外に「群れる」や「村社会」といった、人に関係するものが見られます。実は、こちらの方がより重要なキーワードなのではないかと感じました。例えば、以下の箇所です。
「村社会化」は今後も進んでいきます。今こそ「万物の尺度は人間である」という言葉を胸に、新しいやり方で新しい価値を生み出していくことを志向する方が、みんな幸せなんじゃないだろうか、という問題意識です。
他にも、少し途中を端折ると次のような表現もでてきます。
「群れる」ことで、「同好の士」が寄り合い、切磋琢磨する状態となります。そこで村長と村人が幸せで、満足していれば十分です。
(原文を一部改変)
上記2箇所が問題にしているのは、「ぬるま湯」の「心地良さ」ではなく、「コミュニティに集まる人々が持つ志向性の一致率」です。これらの表現からは、同氏の「興味関心の方向性が近い人同士が結びつくことによって、議論が発展し、新しいイノベーションが生まれるはずだ」という信念が感じられます。
ハヤトさんは「ぬるま湯」そのものよりも、「ぬるま湯から生み出される価値」と「ぬるま湯の中で価値を生み出す行為」の重要性を強く語りたいのだと思います。そして、プロタゴラスは「ぬるま湯」と感じるかどうかは見る人次第である、と言っています。
ハヤトさんが、様々な相手や環境に配慮してオブラートにくるみ、2500年前の哲学者を引き合いに出してまで語りたかったのは、こっちの方ではないかと思います。
ぬるま湯と思われても良いんです。ぬるま湯だと批判されても、それも彼・彼女の尺度では事実なので仕方ないんです。
「自分たちの切磋琢磨を”ぬるま湯”と揶揄されても意に介すな!」という、同士達を鼓舞するメッセージです。
ハヤトさん自身の要約とも、タイトルとも違う部分になってしまいました。。。
■主観的まとめ
ハヤトさんが考えている(と思われる)、「ソーシャルウェブを通して、距離や時間的制約を超え、興味関心が近い人達が集まり、コミュニケートすることによって生まれる多くの有益性」について、批判する人は少ないでしょう。それに対して、同エントリ内でハヤトさんの思いを傷つける批判者する人々の言葉、例えば「ぬるま湯的思考」や、「連れション的気持ち悪さ」などは、集まった人々が他の人々の意見に耳を貸さなかったり、客観的批判に対して排他的になる傾向についての問題提起だと解釈できます。
ですので、両者の意見は全く食い違っていないと思うのです。前向きな言葉でまとめると次のような感じでいかがでしょうか。
ソーシャルウェブによって、志向性の近い人々が距離と時間を超えて集い、濃密なコミュニケーションを通じてより良い価値を産み出していく。一方で、志向性が近い人同士が集まることによって視野が偏ったり、意見が必要以上に偏向しないよう、異なる意見を受け入れる姿勢を意識的に取り入れ、客観な視点を忘れないよう注意する必要がある。
同エントリ内では語られませんが、次のテーマは、生み出された価値を、いかに主観・価値観の違う人々に伝えていくか。どう巻き込んでいくのか。という部分に移っていきそうです。このあたりは私も必死に勉強中です。いつかハヤトさんとも話してみたいと思っています。
■最後に
先日、こういうネタについて、Facebook 上でハヤトさんと軽いやり取りがありました。やり取り、たった1往復で認識の齟齬が生じてしまい、「テキストベースのコミュニケーションって難しいなあ」と感じました。
対面の、五感を使ったやり取りに比べると、現在のインターネット、そしてソーシャルメディアでやり取りされる「文字情報」はあまりにも貧弱だと思います。前回のエントリでも触れましたが、ある人間の歴史、その時の気分、会社や研究分野も含めた今生きている世界、このような膨大な前提条件の発露を、例えば「ソーシャルなメディアのマーケティング」のような、1キロバイトにも満たない情報に頼らなければならないのがソーシャルメディアで行われるコミュニケーションの難しさではないかと思います。そういう意味では、ハヤトさんの説く「似たもの同士のコミュニケーション」は、「ツーカーな間柄だから伝わる微妙なニュアンス」とか、「言わなくてもこの前提わかるでしょ」とか、「以下省略」なんかを可能にす るので、重要だなあ。と思います。だって同エントリを読んで勇気づけられている人は、私のように時間をかけてハヤトさんの言いたいことを探る必要がないの ですから(私の読解力のなさを差し引いても、たぶん)。
私も最近のエントリを書くにあたっては、文字を読んでその裏側にある削ぎ落とされた情報をどれだけ推察できるかを試していますが、今回も、「まとめ」のたった一言を云うために、こんな長ったらしい文章を書く必要に迫られています。
脳みその電気信号をケーブルで交換するような時代になれば少しはよくなるのかも知れませんけど、今はまだ限界があります。インターネットのコミュニケーションは、ある程度いい加減な方がうまくいく、そんな気がします。もちろん、お互いに敬意を払うことを前提として、ですが(笑)
■触れられなかったあれこれ
私の勉強不足や説明力部即のせいで言及するにさえ至らなかった部分。
- 「似たもの同士とはいえ十分すぎるほど似ていない」について
コミュニケーションを通して伝わった情報は、第三者に伝わる時、間に介在する人によって変容するんじゃないか。 - 「自他の「ぬるま湯」を許容」について
「六次の隔たり」なんて言葉があるけど、インターネット上のコミュニケーションは、距離と時間を超えて行われることで隔たりのノード間の距離は短くなっており、「ぬるま湯層」はたい焼きの皮くらい薄くなってるんじゃないか。