【まとめ】ソーシャルメディアという言葉に踊らされないために、知っておいて欲しいこと
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お世話になっております。
ループス岡村です。
昨日、「【学習日記】高広伯彦氏のソーシャルメディアこき下ろしTogetterを更にまとめてみた」という、ちょっと道義的に問題のあるタイトルでエントリを書きました。内容は中立的なものだと思いますが、執筆の過程とタイトルに問題がありました。不快感を覚えた方には申し訳なく思います。
同エントリを書いた背景には、私個人がソーシャルメディアな人々とマーケティングな人々の、つばぜり合いというか、そういう微妙な関係、距離感に辟易していたことがあります。語るも野暮かと思いましたが、あまり実のある事とも思えず、身の程もわきまえずに口をさしはさんだ次第です。
今となっては、このことが非常に価値のある体験となりました。本エントリは昨日の体験を元にした個人的な考察です。主観的なアウトプットには慣れておらず、内容も言葉遊びのレベルですが、ご覧いただけると幸いです。
■「ソーシャルメディア」と「ソーシャルサービス」。混同が生む混乱
「ソーシャルメディア」についてのやり取りがなされる際に、この2つが混同されているために発生する混乱の弊害は結構大きいのではないかと思っています。
「ソーシャルサービス」という言葉には、あまり馴染みがないのではないでしょうか。違和感を説明したくて今私が作りました。「ソーシャルツール」と言ってもよいかもしれません。「ソーシャルメディア」との関係を図にすると以下のような感じです。
図1:ソーシャルメディアと「ソーシャルサービス」の位置関係
図をご覧になっていただければ明らかな通り、この2つは概念として上下の関係にあります。ところが、しばしば下位の概念である「ソーシャルサービス」が「ソーシャルメディア」とイコールであるように語られます。もちろんこの2つは別物なので、同一のものとして語ると話が噛み合わないのですが、ある意味これは無理もない話だと思います。
このように混同されるの理由としては、以下のようなものが考えられるのではないかと思います。
- 実質的な影響力
- 「ソーシャル」はモノではなく「属性」や「性質」。ソーシャルなインターネットサービスはものすごくたくさん存在し、何にでも適用できる。「ソーシャルメディア活用」のようなテーマで、これら「ソーシャルな性質を持つサービス」全部を語るのは非効率的である。現状では「巨大SNS」、「Twitter」など、利用者の多い「一部のソーシャルサービス」を対象にすれば事足りるケースが多い。
- あくまで「目的次第」
- 「ソーシャル」はモノではなく「属性」や「性質」。ソーシャルなインターネットサービスはものすごくたくさん存在し、何にでも適用できる。「ソーシャルメディア活用」のようなテーマで、これら「ソーシャルな性質を持つサービス」全部を語るのは非効率的である。現状では「巨大SNS」、「Twitter」など、利用者の多い「一部のソーシャルサービス」を対象にすれば事足りるケースが多い。
- 「性質」では行動計画に落とし辛い
- 「ソーシャル性を使って何しようね」という話は難しい。
- 「ソーシャルなネット上のツール使って何しようね」ならまあまあ。
- 「Twitter使って何しようね」は語りやすい。
- 実体が具体的で、明確であればあるほど行動計画に落としやすい。
- 「用途」から、暗黙的に選定される
- 例えば、「ソーシャルサービス」の「企業利用」を考える際、APIの開放などで「オープン化」されていないサービスは最初から考慮する必要がなかったりする。そうすると必然的に、特定の用途では特定の「ソーシャルサービス」を選択することになる。選定の結果が1つであれば、それを「ソーシャルメディア」と呼んでもコミュニケーションに問題は生じない。
このような理由で、ソーシャルメディアとソーシャルサービスが混同されるのではないかと思います。「それってソーシャルっていうかTwitterの話だよね」みたいな状況はこうして生まれるのではないでしょうか。
■「ソーシャルメディア」とそれに関わる人々
先に「ソーシャルメディア」はインターネット上の「ソーシャルなサービス」の集合であり、システム特性としての「ソーシャル」はインターネット上のシステム全部が対象となる可能性があると書きました。そうすると、それに関わる人の数も膨大になってきます。インターネットを利用する人の、ほぼ全てが無関係ではいられなくなります。ソーシャルメディアに関わる人達の「関わり方」には以下のようなものが考えられます。
■ソーシャルメディアとの関わり方
- ソーシャルサービス事業者(インターネットサービス事業者に内包される)
インターネット上のサービスを提供している事業者の中で、結果的にそのサービスが「ソーシャルな特性を持っている」とされた全ての事業者。インターネットを使っておもしろいことや便利なことが実現できないかと考えている。 - ソーシャルサービス利用者
ソーシャルサービスを利用する個人や法人。ソーシャルサービスを利用することで楽しみや利便性を得たいと考えている。 - メディアに関わる人々
ソーシャルメディアも含む、多様なメディアでサービスを提供している人々。自分たちが提供するサービスに、新メディアである「ソーシャルメディア」を組み込み、提供するサービスの品質を向上させたり、差別化したいと考えている。 - ソーシャルに関心がある人々
ソーシャルメディアを通じて「人」と関わることに、より関心がある人々。
インターネットを使っているユーザーが、何らかの形で上記のいくつかに当てはまるのではないかと思います。
そして、上記のどの立場から「ソーシャルメディア」を語るのかによって、見え方が異なってきます。例えば、「ソーシャルサービス事業者」は、ソーシャルメディアがマーケティングツールとしてのみ語られることに違和感を感じます。また、「メディアに関わる人々」は、ソーシャルメディアを語る際に、他のメディアの存在を意識します。「ソーシャルメディアだけがメディアじゃない」というニュアンスを含む発言はそういった背景から生まれます。そして、そのどちらもが「ソーシャルメディア利用者」であることが多いです。「人」を中心としてつながるメディアに、多様な背景を持った人々が集まり、それぞれの認識で自分が所属する場を語る。このように、ソーシャルメディアについて議論する際は、メタな情報を意識しないと話がかみ合わない難しさがあると思います。今生きている私たちが人生を語る難しさに似ているかもしれません。
■「大メディア>ネット>ソーシャルメディア」という位置関係
この見出しは階層の話です。この項では、どちらが優れているとか、どちらが影響力があるとか、そういうことを問題にしているわけではありません。
私はインターネットの業界で仕事をしてきたため、前述の「ソーシャルメディアとの関わり方」において「ソーシャルサービス事業者」的な見方をします。ここでは、逆に「メディアに関わる人」からどう見えるだろうか、ということを考えてみます。
メディアと名のつくもの。例えば「マスメディア」「ペイドメディア」「オウンドメディア」「アーンドメディア」「双方向メディア」「マルチメディア」「トリプルメディア」「アジャイルメディア」「記録メディア」「トライバルメディア」、そして「ソーシャルメディア」。色々ありますが、この中で、インターネット上にしか存在しないものは、「ソーシャルメディア」だけではないでしょうか。そういう意味で、ソーシャルメディアというのはちょっと珍しい存在です。
一方で、世の中には「メディア」を専門に扱う人々がいます。私に「メディアとは何か」を語る力はありませんが、ここでは世間一般の人々が考える「メディア」、テレビや、雑誌、インターネットなど。とさせてください。
この、メディアの中に「ソーシャルメディア」をプロットすると、以下のようになります。
図2:大メディア内とソーシャルメディアの位置関係
上図において、「テレビ」や「新聞」はいわずとしれた「マスメディア」です。それに対して「ソーシャルメディア」は、構造的に下位にあるインターネットの一部サイトである、という位置付けは「大メディア」に携わる人達が持つ当たり前の視点です。この点は、「メディアに関わる人々」と「ソーシャルサービス事業者」が、それぞれの事業領域がオーバーラップする部分を話題にする際、強く意識しておきたい事項です。「メディアに関わる人々」の会話の前提条件として、「ソーシャルメディア以外のメディア」が暗黙的に存在するかもしれないということです。
そして、ソーシャルメディアはインターネットのシステムであるため、インターネットに関する知識があった方が色々と語りやすいものです。今のソーシャルメディアを取り巻く状況というのは、「メディアに関わる人達」と「ソーシャルサービス事業者」の事業領域が一部重なりつつある一方、双方の分野で必要な専門知識が共有されているとは言い難い。そのために、両者に微妙な距離感が生まれているのではないかと考えます。
空気の読めない私は、もっとがっちり組めばいいのに。と感じています。
■「思いやり」。相手の立場に対する配慮
これまで書いたように、ただでさえ曖昧な「ソーシャルメディア」という言葉に、場合によっては「マーケティング」がつくのだから大変です。「ソーシャル・メディア・ マーケティング」。アブストラクトの王様みたいなものが出来上がりました。元システム屋としては、こういう解釈次第で何にでも使える言葉には極力近づきたくないというのが本音です。アスタリスクみたいに見えます。
そこで、「ソーシャルメディア」が語られる際の誤解を少しでも見えやすくするため、最初の図に手を加えてみました。
図1':人と文脈によって「ソーシャルメディア」の意味するものがずれていることあるけど、いちいち確認しないよね。だってTwitterだもん。という図です。
図2’:ソーシャルメディアとそれを包含する大メディアがあって、どっちも大事だよね。で、今話してる大事なメディアのマーケティングはどっちのメディアのことだっけ?という図です。
立場が違うと見え方が異なり、その意味するところを確認しようにも元々抽象的で難しい。このあたりがソーシャルメディアについてコミュニケートする時に陥りやすい罠なのではないかと思います。
そして、人の「立場」というものは、歴史の積み重ねの上にあるものだと思います。「デジタルネイティブ」という言葉が象徴するような、技術の進歩が世代交代を待ってくれない時代、特定のインターネットシステムに対するイメージを統一するのは大変です。多様性に価値を置く文化がある場合はなおさらです。しかも情報交換の場として当たり前に使われているインターネット上でやり取りするのは、画像や匂いや音に比べてはるかに情報量の少ないテキストデータばっかりです。
長々と書きましたが、まとめますと「色々解釈できるような言葉を、多様な人生を歩んできた人達が扱うのだから、齟齬が生じるのは当然」という一言で片付きます。
そうすると、必然的に「相手の立場に立って物事を考える姿勢」というものが、円滑なコミュニケーションを進める上でより一層大切になってくるのではないでしょうか。「うへぇ、”愛”の次は”思いやり”か・・・照れくさくてしょうがないや」、なんて声が聞こえてきそうですが、背景の違う多様な人々が集まる場があるとしたら、その中での行動指針を人間誰もが持つ根源的なものに求めること。この判断は、案外合理的と言えるのではないかと思います。
まあ、何も新しいことはありません。当たり前の話です。みんなわかってて言ってるんだろうと思います。でも、みんなわかっているにしろ、直接顧客の利益に貢献しないこういう話はなかなか表現する機会もありません。少しくらい、こういう間抜けなエントリがあってもいいのではないかと思いました。
■最後に何かおもしろいことが言えないものかと思案してみるのですが
私は、昨日のエントリ執筆を通して、職業も、考え方も違う高広伯彦氏の意見をひとつひとつ追いながら、新たな視点に気付く貴重な経験をすることができました。また、同氏の「ぶった斬る」コミュニケーションが、議論による意見の切磋とそこからの学びを期待するものであることを知り、今日のような、ブログで自分の意見を述べることの勇気につながりました。昨日までは、叩かれないように、叩き落とされても痛くないように、低く低く飛ぼうとしていました。「みんなに同じように伝えるなんて不可能さ」みたいなことを考えていました。高広氏の言う、「ソーシャルメディアのぬるま湯」よりもっと次元の低い、自分の殻です。このエントリを書きながら、せめてヤドカリくらいにはなりたいなあ、と思いました。
最後の最後に、誤解を恐れずにこの2日間で学んだことを総括してみます。
ソーシャルメディアに踊らされてはいけない。
ソーシャルメディアがおもしろいのではなくて、人にフォーカスすることが面白い。
ありがとうございました。