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君が代斉唱で教職員の起立を求める職務命令について

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卒業式の国歌斉唱時、全教職員の起立指示 大阪府教委が職務命令」(産経ニュース)などで報じられているとおり、大阪府では学校行事で「君が代」を斉唱する際には教職員が起立することが職務命令となったようです。

まず、私自身は学校行事において「君が代」を歌うことを義務付ける必要を感じません。一方、それが義務付けられることに強い抵抗感はありません。たとえば、選挙において、候補者が君が代斉唱を義務付けするかどうかを他を要因を差し置いて判断材料とすることはないでしょう。

また、君が代に対して特別な思い入れもありません。日章旗や君が代と不幸な歴史が重なり合うことで嫌悪する人々の存在までを否定するわけではありませんが、日本という国で起きた、あるいは起こした歴史は、日章旗や君が代を否定することで忘れられるものではないとも思っています。これが私の立ち位置です。

■君が代は国歌

10年ほど前に国旗国歌法(国旗及び国歌に関する法律)が施行されました。つまり君が代は宗教ではありません。特定の宗教に依存するようなものは国歌として制定されないからです。肯定的にしろ、否定的にしろ、君が代に対して何かしらの信仰を持つ人がいたとしても、それは君が代を宗教とみなす理由になりません。

たとえば、学校で「宇宙の始まりはビッグバン」と教えるとします。「この世の始まりはビッグバンではなく、エル・カンターレが作ったのだ」と教えることに宗教的な意味合いがあるからといって、ビッグバン理論を教えることに宗教色があることにはなりません。あるいは「絵を描くときは画用紙を黄色に塗りなさい」「無理数は存在しない」といった宗教的主張があるからといって、「白い画用紙に絵を描くこと」「無理数を認めること」を宗教ということはできません。お犬様信仰を持つ人がいるからといって、保健所の人が宗教弾圧を行っていると批判されることはありません。

つまり、君が代の斉唱を拒否することに宗教的意味合いがあるとしても、義務付けることが宗教的な意味合いを持つ強制ということにはなりません。もちろん、国旗国歌法そのものが憲法の認める信仰の自由を侵害するという主張はありえます。私は、その主張が認められる可能性はないと思っていますが、その前提に立つなら大阪府ではなく国旗国歌法に対して憲法訴訟を起こすべきでしょう。

ちなみに、アメリカでは硬貨や紙幣に "In God We Trust"(我々は神を信じる)というモットーが刻まれています。「神を信じる」なんて宗教的な意味合いを持っているようにしか見えないのですが、最高裁では宗教的な意味合いがないと判断されました。裁判でも聖書に手を置いて真実のみを語ることを宣誓します。宗教によっては免除されるそうですが、そのような宗教的に見える“儀式”が当然のように行われています。そうしたことに比べれば、「君が代」に宗教的意味合いがないことは、ずっとマシな気がします。

■卒業式は職務

日本国民には信仰の自由が認められているのですから、誰しもエル・カンターレを信じ、画用紙を黄色く塗りつぶし、無理数を否定する考えを持つことができます。しかし、教職員にとって卒業式は職務です。職務の場を、個人的な信仰の発表の場とすべきではありません。教育の内容が教師の信仰によって歪められることは、無宗教という考え方を含めて生徒の信仰の自由を侵すことになります。したがって、(宗教ではない)君が代斉唱が義務付けられたのであれば、職務の場ではそれにしたがうのが職員の義務です。「信仰の自由があるので無理数は教えられません」という“自由”は認められないのです。

■処分の程度

職員が自らの意思で職務命令に沿わないのですから、何らかの処分があっても不思議ではありません。しかし、「言うことを聞けない奴はクビ」というほどのことでしょうか。物事には“程度”というものがあります。君が代を拒否することで“規律の乱れ”は指摘できますが、生徒の学力が大きく低下するといった“実害”があるとは思えません。私が通った中学校では、しばしば朝の職員会議に遅刻している先生がいましたが(小言は言われていたようですが)具体的に処分が下されたことはなかったと思います。

「戒告は裁量権の逸脱に当たらない」国旗国歌不起立訴訟 処分の妥当性、最高裁が初判断」(産経ニュース)では次のように報道されています。

卒業式などで国旗掲揚、国歌斉唱の際に起立しなかったことを理由に東京都教育委員会から戒告、停職の懲戒処分を受けた教職員らが都に処分の取り消しと損害賠償を求めた訴訟2件で、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は16日、「戒告処分までは基本的に懲戒権者の裁量の範囲」との初判断を示した。

同小法廷は、戒告処分について「処分自体が教職員の法的地位に不利益を及ぼすものではない」と指摘し、「過去の処分歴の有無にかかわらず、処分は相当」と結論付けた。一方、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することは、事案の性質などを踏まえた慎重な考慮が必要」と指摘。

最高裁は「停職や減給までは行き過ぎ」と判断したのです。これは妥当な判断だと考えます。

■民主主義と橋下氏

ことの発端は元大阪府知事で現大阪市長である橋下徹氏です。そして橋下氏は選挙によって選ばれました。松井現府知事も同じです。大阪府民が選んだ府知事の判断は、大阪府でしか有効ではありません。これは民主主義にもとづいた大阪府民の選択であることに疑いの余地はなく、これを独裁ということはできません。独裁とは、小数が多数の意思によらぬ権力を持つことです。民主的に多数の支持を得たことまでを否定することは民主主義を否定することにもなりかねません。

また、民主主義における少数意見の尊重とは、多数の意見を無視して少数の意見を採用すべきということではありません(むしろ、それこそが独裁的思想です)。少数の意見も尊重して考えるべきだということを多数に支持してもらう必要があります。多数でよってたかって個人をいじめることは、「多数でよってたかって個人をいじめることはよくない」ことを多数が賛同することで否定できます。

実のところ、私は、橋下元府知事や松井現府知事を選んだ大阪府民が積極的に君が代斉唱や起立を義務付けが必要だと考えて投票したわけではないと考えています。それほど追跡しているわけではないのですが、いわゆる反府知事と思われる人々の言動にも問題を感じることがあり、府民が橋下氏を選択したくなる気持ちもわからないではありません(余談ですが、大阪府民の選択を嗤う東京都民の人は、都知事が誰かを思い出すとよいでしょう)。義務付けに反対するのであれば、「府民の選択は“君が代”じゃない!」という署名運動などを行えばよいのではないでしょうか(やっているようですが)。

■議論の方向性

君が代の斉唱や起立の義務付けに反対するあまり、「このままでは北朝鮮のようになる」「天皇主権が戻る」などと煽る人がいますが、はたしてそうでしょうか。「北朝鮮のようになる」が具体的に定義されているわけではないですが、(北朝鮮と同じように国旗掲揚するようになるという程度の意味ならばともかく)自治体長を決めるために選挙が行われず、独裁君主によって国レベルで拉致を起こすような国になるかという意味であれば、その可能性はまずありません。

君が代斉唱に限らず、「〇〇によって恐ろしい結果になる」ということで反対することは、「○○」が採用されて何年も恐ろしい結果にならないことで否定され続けます。そうした主張は、「○○反対派の言うことはただの煽り」を肯定することになるでしょう。もう少し現実的な反対理由を挙げないと、常識的な反対派からも疎まれてしまうのではないでしょうか。

■「君が代」

ところで「君が代」とはどんな歌なのでしょう。

君が代は 千代に八千代に
さざれ石のいわおとなりて
苔のむすまで

「細かい石が大きな岩になり苔が生えるほど長く、君の世が続くように」というところでしょうか。ここでは「君=天皇」という前提をおきますが、天皇は憲法で次のように制定されています。

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

「天皇の地位は国民の総意に基く」のですから、要するに「国民の言うことを聞け」ということです。つまり君が代は「天皇家は、子孫ともども国民の言うことを聞いてろよ」というわけです。まるで半永久的な集団によるつるしあげを願うかのようです。思い起こせば、天皇には選挙権という国民の基本的な権利すら与えられていません。生物学的には我々と何ら変わらない天皇に対して、あまりにもひどい仕打ちではないでしょうか。

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